原爆投下の一瞬前を見た少年
原爆投下の一瞬前を見た少年
空襲に備えて、町内の人々が協力して掘り出した横穴防空壕が山の中腹にあった。
小学一年の孝志は空襲警報に備えて、昨夜から避難している姉と弟の昼御飯のおにぎりを届けるために、八月九日の十二時前に昼食を持って外に出た。
孝志はあまりにも外が明るくてまぶしいので、暫く歩いてから空を見上げた。青々と晴れ渡った空、それは真夏の太陽が燦々と照りつける雲一つない、いわば日本晴れであった。
其処に突然、わいて出たかのように、銀箔の大きな飛行機が一機、東の方から西の方向、いわゆる市街地もしくは、三菱造船所方面に飛んで行くのが見えた。それも何の抵抗もうけず、我此処にありと悠然と飛んでいる姿は、孝志にとつてはただ「すごいなー」と思わせた。
飛行機が空のブルーを背景に、輝くダイヤモンドのように輝いていた。
孝志にしても、またその飛行機の下にいた多くの人々も、まさかどんなに間違っても、この美しい堂々とした飛行機が長崎の街を一瞬にして破壊しようとは考えも及ばなかった。それ故に、一瞬『これは日本の飛行機なのか、それとも敵機なのか?』と孝志の頭の中は複雑な思いに駆られた。そして日本の飛行機であって欲しいとの願いをこめながら、近くにいたおばさんに「おばちゃんアレ」と指先を上の方に向け、大きな声で「あれ日本の飛行機?」と問いかけようとした。
すると孝志の存在に気付いたおばさんが「孝志ちゃん逃げなさい!」と大声で叫んだ。
孝志はその声を聞いて、これはただごとではないと悟り、もうその飛行機が敵か味方かを確認する必要はなかった。
危険を悟った孝志だったが、だからといって
前へ進めと云うのか、後に戻ったらいいのか瞬時のことで判断に戸惑ってしまった。
子供という者は、「こっち」とか「あっち」
とか方向付けをしてもらうと、だいたい言われた方向に行動するのだが、ただ逃げろには困ってしまった。
右側は塀、左は崖なので飛び降りるわけにも行かず、「逃げろ!」の言葉に慌てて孝志は今来た道を家の方に向かって走ろうと決意して何歩か戻った。しかし数歩も戻らないうちに、目の前で閃光が走った。
まるでそこには恐ろしい入道雲のようなものが待ち受けていて、鋭い刃物で斬りつけてきたかの様で、孝志は未だかってみたことのない情景に驚きいった。
目の前に真っ白い巨大なフラッシュみたいなものが走り「アーッ」と思った瞬間、次にきたのは「ドーン」というとてつもなく大きな爆音だった。
その時、孝志は真横に爆弾が落ちたのだと感
じ、これで自分は死んだのだと思った。
それでも小学一年の一学期に、学校の廊下を使って教わった防空訓練が身についていたら
しく、教えられた通り、小さな手の指四本で
目を押さえ、残る親指で耳を押さえたまま溝の中にはまっていた。
少し経ってから母の声が遠くから聞こえてきた、「孝志!、孝志!」。孝志はその声に引っ張られるように手足を動かしてみたら動くので、自分はまだ『死んでいないんだ』と思った。身体を持ち上げると少し頭や身体が痛かったが起き上がることが出来た。
多少の擦り傷と打ち身があり、血が流れていたが、とにかく生きているのだから早く母の所に行こうと思った。
溝へはまり込んだのも自分が自覚してそうしたのか、吹き飛ばされたのかもよくは分からないが、自分が道路の横にある溝の中にはまり込んでいることは事実だった。起きた瞬
間『早くここを出なければ』と必死になった。
すると上の方からバラバラと、瓦のような物が落ちてくる音がしたが、無我夢中だったので多少の障害物よりも早く家に帰り着きた
かった。 家の中に飛び込んだ孝志は「母ち
ゃん!」と大声で叫んだ。
母はすすだらけの真っ黒な顔をしていたが、孝志の顔を見るなり、妹を胸に抱きかかえて、「早く!、隣の防空壕に行きなさい!」と大声を出して急かせた。
隣と云えば我が家より奥にあって、大きな家だった。軒下も大きく掘ってあり、防空壕として以前も何度か世話になったことがあったから、母の言っている意味がよく分かった。 母の指示通りに無我夢中で隣の防空壕まできたとき、一瞬周りが静かになり、『もう攻撃は終わったのかな』とさえ思えた。
瞬時のできごとであったが、母は妹を抱きかかえたまま、何がなんだか分からないまま
に孝志の姿を確認すると、自分もその後から隣の家に飛び込んで来て、「大丈夫、大丈夫、どこも怪我はなかね」と気遣った。このようにしてお互いの無事を確認した。
それでも母は、まだ安心ならんと身構えつつ、
周りの人と無事を確認しあった。
我が家にも畳の下を掘った小さな穴蔵があったが、「とにかく隣へ飛び込め」と云った母の思いは孝志にはよく分かっていた。
そこには五十前とはいえ、近所には数人しか残されていない(若い人は兵隊に採られていた)男の人がいたので心強かったのかもしれない。そのおじさんは、常々父親のいない孝志の家族や、近所の人の難儀を助けておられたので、困った事があったときにはいち早く其処の家に行くのが最善だった。
この度も「早く来い、早く来い」と自ら手招きして家の中に入れて下さったので、何の
遠慮もなくなだれ込むようにして入っていっ
た。 しかし物事はそれだけでは収まらず、今度はダダダダダと機関銃から打ち出される異様な音がした。敵か味方かは別にして、息も尽かせぬ銃撃は、其処に居合わせた者を震え上がらせ、地下壕に入る間も与えないで、そのまま『土足のまま』その音におびえて、
再びおじさんのかけ声と共に奥の方へ奥の方
へと逃げ込み、他人の家の押入なのに布団を引っぱり出して出来るだけ多くかぶった。頭隠して尻り隠さず、でもこれが『めーいっぱい』であった。暫くは沈黙が続いたが、暫くして後、おじさんが「もう大丈夫だ」と言うと、その声を聞いて安心したのか被った布団から少しずつ顔を出し、互いが無事であることを確認し合い、喜びながらも、泣いたり笑ったりした。孝志にはみんな気が変になつたのではないかと思えるほどの情景であった。
しかし爆弾投下の後で機関銃の音がしたが『アレはいったい何だったのだろう』とみん
な不思議がった。今考えれば、原爆を落とされた日本人が示した、最後の悲しい抵抗だったのかとさえ思う。
暫くはだれ一人動かなかったが、外で少しの話し声が聞こえてくると、だれともなく大人の人はその声のする方へ近付き、互いに顔を合わせるなり「大丈夫やったね、誰も怪我
しとらんと、良かったね」と言い合った。
人々は、あまりの恐怖に自分から動き出そうとはしなかったが、こちらを気遣って近付いてくれる人には何でも気を許して話し合った。一人、また一人と元気な人が出てきては生きていることを確認し、「怖かった!」と云うだけで、事の事実は何が起こったのか誰も知らなかった。とにかく無事を確認しあうと、後片づけにとりかかった。
その時、何が起こったのかさえ暫く正確には知らされなかったが、ただ「大きな爆弾が
落ちたらしい」と、あちらこちらで噂話がな
されていた。後で母に聞いた話だが、孝志達が逃げ込んだ家の二階の部屋には、息子さんの奥さんが結核で寝ていたらしい。怖かったろうに声一つ出さず寝ていたらしい。腹が据わるというか、普段から死に対して覚悟の出来た人は凄いなぁと思った。
おじさんにお礼を言って我が家に帰ったものの、畳は吹き上げられ、タンスはとんでも
ないところにひっくり返っていた。
見事に荒れ果てた我が家を見た母は、周囲の状況を察したのだろう、気丈に振る舞って、まずは落ちついて孝志に「おにぎりはどうしたの」と尋ねた。
『おにぎりは?』と聞かれたとき「あれー」と思って、自分が今何をしょうとしていたかさえ暫くは思いだせなかった。孝志はとんでもない恐怖に遭遇して、一瞬記憶がどこかに飛んでいったみたいに感じた。
孝志はお弁当の事についてはすっかり忘れ
ていたが、母に何度も尋ねられたので、渋々外にでてあたりを探し回ると、おにぎりは溝の中に風呂敷に包まれたまま落ちていた。
母はその風呂敷を受け取るなり解き放って、新聞紙に包まれてグチャグチャになったにぎりめしを鍋に入れ水で洗った。それから水切りをし、再び弁当をこしらえた。孝志はそれを見ていて「かぁちゃん、何でご飯を水で洗うの」と聞いたら母は、「溝には『ばい菌』
が一杯いるから、みんながお腹を壊したら困るので綺麗にしてるの」と言った。(確かに子供がその溝の前に立って立ちション便をしているのを孝志は見ていた)それで納得した。
母はそれを姉たちの所に持って行くようにと命じた。「みんなお腹空かしてるから早う持っていってやらんばやろ」と母は孝志を急かせた。 孝志はその事はよく分かったし快く了解したが、早く持っていくのが自分の役割だとは思わなかった。 てっきり母が一緒
に行ってくれるものと思っていた孝志の気持ちとは裏腹に、「孝志、お前は男の子でしょう、一人で持ってゆくんだよ」と念を押されたときには孝志は足がすくんで『とんでもない』と抵抗し、一人で行くのを嫌がった。
「かあちゃん僕、怖か!、一緒に行こう」と何度も頼んだが、母は後片づけがどれほど大変かを周りの様子を見まわしながら孝志に説明し、「弁当を孝志が持っていかなかったら、姉ちゃんたちの様子も分からないし、今頃お
腹を空かして泣いているかもしれないよ」と云って脅されたり諭されたりして、孝志は渋々持って行くことになった。 しかし、孝志は母が『孝志、頼むから』と言った時、その目に涙が一杯溜まっているのを見た。
母は横にあったタオルで顔を拭き、そのタオルで孝志の汚れた顔も拭いてくれた。
『山腹の防空壕にいるとはいえ、母にとっ
ては姉と弟の無事が知りたかったらしい』。
一旦外に出てみると、血だらけになり両腕を支えられて、階段を一歩また一歩と歩いている人や、担がれている人に出会った。
それを見ているうちに孝志はだんだん前に進むのが嫌になった。
何度も戻ろうかと思ったころ、知り合いの人が「まだ外に出ない方がよか」「早う此処に来んね」と心配して声をかけてくれた。
此処は渡りに舟である。願ったりかなったりと思ってその人達のところに近付くと、みんなの状態は子供心にもあまりにも悲惨で居心
地が悪かった。昼食時なのにお腹を空かしていて、大勢の子供や赤ちゃんが泣き叫んでいる。大人達もおろおろするだけで平静さを無くしていることを見て取った時、孝志は『この人達は自分たちより惨めな状況にある』ということを悟って、これ以上此処にはいない方がいいと思った。
そんな周囲の人の心遣いに励まされた孝志は、
周りの様子に圧倒されながらも努力して懸命に登り続けた。『また大きな爆弾が落とされるのではないか』との心配が想いから離れず、『今度同じ事が起こったらもう二度と立ち上がれないだろうなぁ』と自分でも感じながらも、どうにか姉弟達のところに近付いていることが分かり、『もう少し、もう少し』と自分を励ました。
「まずいご飯」
それでもやはり恐怖心はなかなか払拭されず、少しの時でも一緒にだれかの側をくっつ
いて歩きたかったのに、誰一人として孝志のことを気にかけてくれる人はいなかった。
すべての人は自分と家族のことで精一杯なのである。こうして姉たちに自分たちの身に起きたことを話しをし、とにもかくにも姉に弁当を届けることが出来た。このことは、孝志にとって、随分その後の人生においての、自信につながったように思う。
しかし姉はご飯を受け取って口に一口入れるなり、「これなに、まずーい」と言った。
弟も反応は同じであった。母もご飯を水で洗ったらどんなものになるかは知っていたはず、それでも溝の汚水で汚れたものをそのまま持っていかすわけにもゆかず、このような形で届けるしかなかったことを、姉は孝志の説明を聞いて理解したのか『お椀の中にご飯を入れ、上からお茶をかけてすすって食べてくれた』。少しお腹が落ちついたからか、姉は孝志の方を振り向いて「ありがとう」と言ってねぎらいの言葉をかけてくれた。 姉も大き
な爆弾が落ちたらしいことは知っていた。『自分たちも光を見たこと、又その爆音に驚かされたこと』を話した。それだけに孝志がここまで一人で来ることがどれほど大変だったかを理解もしてくれたのである。
それにしても、周りで腹を空かしている子供が、そのまずいお粥を恨めしそうに見ている現状は何とも辛い、分けてあげたいとの気持ちはあっても中身があまりにも粗末すぎた。 その防空壕は湿っぽく天井から水が垂れてきたり、下から水がわいてきて大変だった。少々分厚い板でも、地べたからわき出る水ですぐに赤土の中に埋まってしまい、水があがってきた。よほど大きな材木でもおかない限り、人間が寝起きする場所には適さない。
中には男手を借り、床を作って畳さえ持ち込む人もいたが、今はねたんだり、僻んだりしているときではない。それぞれが自分たちに出来ることで努力する以外誰にも甘えてなどいられず、とにかく今日の命を大切に生き
抜くしかないと家族で話し合ったり約束したりして結束する事が出来た。
とは云っても孝志の家族は三十三才の母千絵と長女で七歳の姉、六歳の孝志、三歳の弟、
一才の妹で四人暮らし、頭数は四つでも母に
とっては頼りに出来そうなのは誰もいない。
それでも孝志達に出来ることは、何とか家の物置に立てて置いてあったすべての棚板を、全員で防空壕へ持ってくることだったが、朝起きてみると、結果は何処も同じで、薄い板を何枚も重ねたのに板の上に敷かれた『ござ』がビチャビチャに濡れて泥だらけになり、互いの顔を見て大笑いするほかなかった。
男の子は丸坊主だからまだいいが、髪を長くして普段、可愛子ぶっている女の子は、起きてみたら『お化け』みたいになっていてとても惨めな顔をしていた。
今は夏だから井戸も使えたし水浴びもできるが、冬になったらどうなるのかと多くの人は不安に思った。母は孝志の方を見て「お前
がもう少し大きかったらいいのに」と言った。
六歳の子供に「もう少しおまえが大きかったら良かったのに」と言ったのは、あり得ない
話ではあっても、『此処で男手があったなら
こんな惨めな思いをしなくてもよいのに』と
考えていたのかもしれない。
それでも決してビルマの前線で戦っている父のことを子供の前では口にしなかった。
そこには思いは思い、現実は現実としてとらえなければどうにもならない母の悔しさがあったのだろう。
だから間もなく終戦の知らせを聞くと夕日を眺めながら「お父さん無事帰ってきてね」と、何時帰ってくるかわからない父を思い描いて心待ちする母が居た。
しかしビルマでは壮絶な戦いがあったらしく『ほとんどの人が死んだ』と母をガッカリさせるような情報も飛び交ったのも事実である。
それからの母はある程度覚悟を決めたか、他人にはその事を(父の帰還のこと)云わな
いようにしていたが、孝志たち子供の前では「お父さん早く帰れたらいいね」とは言った。
終戦前、普段くじ運に弱く何一つ当たったことのない母が、肉弾戦に備えての竹槍を町内のくじで引き当ててしまったことがあった。母は独り言のように「何でこんなときに竹槍など引き当てるのだろう」とこぼし、竹槍の稽古もそこそこに、その竹槍の置き場所にさえ困ってもてあましていた。
何故ならこの時は、まさか一発の爆弾で一瞬にして長崎で七万数千人の人が死ぬことなど考えられなかったからである。
竹槍も町内の数件の人に何本か割り当てられただけで、いざ戦というときに竹槍がものの役に立つなどとは考えなかったに違いない。竹槍は国民の志気を高めるための一時しのぎに過ぎなかった。戦争が終わると、よっぽど煩わしかったのだろう、母は惜しげもなく、小さく切って薪にしてしまった。
その後、嘘か真か多くの人の死に様が次か
ら次へと伝えられた。爆心地の浦上川には、
火傷した人達や家畜が熱さのために水を求めて転がり込んでいる。何処へ行っても人も馬も倒れあえいでいる。水をあげるとほとんどの人が『安心してか』死んで行くので、あげない方がいいと、もっともらしい話が誰からともなく伝わってくる。「そんなに喉が渇いているのなら最後ぐらい呑ませたらいいのに」と言う人もいて、「だから水を求められてもやったらいかん」とは誰もいえなくなった。もっともらしい話でみんなを驚かせたのが、『赤ちゃんを背負って逃げていた人の後ろから、「奥さん!、奥さん!」と、いつまでも叫ぶ人の声がする。呼ばれた人が仕方なく振り向くと「あなたの背中に背負っている赤ちゃんの首が飛ばされて無くなっているよ」と云われて、肩に掛けていた紐をほどいたとたんその場で失神した』とも聞いた。
「進駐軍上陸」
長崎港には終戦を合図に、連合軍の軍艦が次から次と数隻ずつ入港し、戦艦『武蔵』を作った三菱造船所の前で碇を降ろし、堂々と戦勝軍の国旗を賑やかにたなびかせている。暫くするといかにも誇らしげに甲板に出そろった水兵達が、覚えたての日本語で「バンザイ、バンザイ」と大声で叫んでいる。
六歳の孝志は小高い坂道に立って、その光景を大勢の大人に混じって見た時に、『日本は負けたのだ』と戦争の意味もよく分からないままに確信させられ子供心に悔しかった。
連合軍については姿、形を見ないまでも顔が白くて金髪で背が高く目が青いと聞いていた。又ある人は色が黒くて白い歯をしているとも言った。まるで鬼でも見るかのようにあれこれ考えては、遠くからその勝ち誇った姿を見つめたものだった。
大人達は「女、子供はとにかく日が暮れた
ら外に出ないように」と互いに話し合ってい
た。 長崎港はポルトガルと交易を行い、その後『出島』を埋め立てて、オランダ人と交
易を行ったことはあるが、過去一度も敗戦国として、土足で外国人に無条件で入られたことはないのである。 暫く経った頃、日暮れに女の人の悲鳴を聞くことがあった。それが進駐軍の仕業なのか、やくざの悪戯なのかは分からないままに、母は早めに雨戸を閉めて黙って子供達を見守っていた。孝志たちも意味もなく静かに息をひそめて口をつぐんでいたが、夜陰を貫く罵声と女性の声には敏感で、『また誰か襲われたのではないだろうか』とか『どこかへ連れて行かれるのではないか』と、想像をたくましくした。
そして布団をかぶり身を寄せ合っては震えながら、小さい身体をもっと小さくして泣いたりしたものだった。
しかし、日毎に周りの状況や情勢も正確に
伝わるようになってからは、『進駐軍はそんなひどいことはしないんだとの認識をもてる
ようになった。 飛行機からビラが何度も舞い降りて、ニュースや情報に乏しい人々が何ごとかとそのビラを追いかけ回している。(当時ラジオはほとんどの家にはなかった)
そのビラに何かを貰えると書いてあったら家族総動員でその場所へ走った。しかし大抵は「お茶を挽いてしまった」と悔しそうな顔をして引き上げる大人の人の姿を見ることが多かった。
『お茶を挽く』の意味が分からず母に尋ねたが、「いいこと無かったという意味だ」と教えてくれた。それにしても『お茶を挽く』の意味を正しく知りたいと思って後々調べたら(遊女や芸子が客が無くて暇なこと、又、はやらない遊女や芸子のこと)と辞書には書いてあった。【なんと粋な遊び言葉】と感心させられた。とにかく、『物事が思うようにいかず悔しい』と云っていたことが分かった。
当時の話題と言ったら、『進駐軍のジープが諏訪神社の階段を何十段も一気に駆け上が
った』とか、チョコレートやチュウインガム、お菓子を配っているとの誰もが興味を引きそうな話があちらこちらから聞こえてきた。
子供達もそんな良い話なら負けてはいない。実際、孝志の姉が「割り箸を持っていったら、チュウインガムと交換してもらった」と得意そうに口をクチャクチャ言わせて帰ってきた。それを見た孝志も「家には食べ物はないが割り箸なら一ダースでも二ダースでもある」と勢い込んで走って行き、恐る恐る割り箸を見せて渡そうとしたが、「男の子は駄目だ」と断られてしまった。
小さな子供なのに男も女もあったものではないと憤慨していると、「其処の子供ら離れろ」と威嚇しだした。その瞬間、子供達は蜘蛛の子を散らしたようにその場から逃げた。
それでもしつこく付きまとう者がいれば、ジ
ープの上から大男の黒人兵が、小銃を小脇に抱えて「撃つぞ」と脅しにかかる。
その形相たるや、本当に撃たれるのではない
かと思わせた。直接その事には関係がない者も一緒になって一目散に逃げ出すと、その慌て振りを見て彼らは勝ち誇ったように大きな口を開けて笑っている。子供ながらに腹が立ってくる。『進駐軍は怖い』とのイメージから少し解放されそうだったのに、なんと云うことはない白と黒の大男に嫌気がさした。
そんなとき、白人が美味しそうに食べたガムを吐き出した事があった。よっぽどチュウインガムに興味があったのだろう、一人の男の子がそれを拾って手にした。その様子を見ていた白人が凄い剣幕で大声を出して「ノオー」と叫んだ。
その場にいた誰の目にも『そのチュウインガムを口に入れてはいけない』と云っているよ
うに聞こえた。その男の子はよっぽど怖かっ
たのかその場にかがみ込んで泣きだしてしまった。 しかしその兵隊の仕草を見ていると、どんなに興味があっても、お腹が空いていても『不衛生なことをしてはいけない』と云っ
ているかのようにも思えた。言葉の分からない日本人は、その仕草の後のことがとても気になった。
取り巻いていた人の中には『さすがプライドの高い兵隊さんよ』と次の瞬間を期待した人も大勢いたはずだった。
これだけ格好を付けたのだから、其処に屈み込んで泣いてる男の子に、「もう二度とこんな事はしていけないよ」と言い聞かせて、ガムの一枚か二枚与えて、頭でもなでるかなぁと見守っていると、どっこい噛みつぶしたチュウインガムを道路に再び叩きつけ靴で踏みつぶして唾を吐いて向こうへ歩いて行った。
たちの悪い外人とはこういうのをいうんだと言っているようで気分が悪かった。
孝志達が期待した、日本人のような意気と人情は彼らには持ち合わせがなかったようだ。
結局彼らが残した印象は『苦虫を噛みつぶし
た怖い顔』だけだった。
しかしその後、よほどきつく踏みつけたのか、
その兵隊の歩き方のぎこちなさに、それを見ていた大勢の人が、事の次第を知ってか、知らずか、兎に角、大笑いしてしまった。
なぜなら、その兵隊は、地面に靴を何回もこすりつけては恨めしそうに歩いて行ったが、結構面目をつぶされた形となった。このとき始めて『チュウインガムとは粘着力のある食べ物なのだ』ということを孝志は理解した。
時の経過と共に、廃墟となった街も少しずつ活気づいてきたので、遠くに行くのは親から止められていたが、近くの市場までは買い物に行くことがあった。しかし、実際買い物するための市場の多くは焼け野原になっており、其処で死体が焼かれたとの噂を聞いた。
それから数日後、母に連れられ同じ道を通ったら、火葬場と化したその市場の上に土が
もられて、その上をジープが走り土をならしていた。母が用事を済ませている間、その様子をじーっと見ていると、今度は其処にチュ
ウインガムやチョコレートなど珍しいものが
進駐軍によってばらまくように置かれた。
まるで死んだ人に対する供養のように思える。
しかし結果は悲惨だった。彼らが一通りのことをして立ち去ると、腹を空かせた大勢の人がそれを見ていたので、大人も子供も我先にと飛びだし、拾うと云うより引ったくるようにして取り合いした。最後には足で踏みつぶされたものを掘り起こして持ってゆく人もいた。子供ながらにも孝志は『その下には人間の骨があるのに』と悲しくなった。
残された女性と子供の働き
小学一年の二学期が始まった。
早速、シラミ退治のために、殺虫剤DDTの粉を頭から浴びせられた。後衿首の隙間から服の中に自転車の空気入れのような噴霧器を入れられて、有無を言わせず先生の指示通りに、全ての生徒が吹き付けられたのである。 また教科書は、進駐軍に見つかったら罰せ
られるとのことで、墨を擦って文字の上を黒
く塗りつぶすようにと云われた。
一学期しか使わなかった真新しい教科書が、使う前から訳も分からず墨汁を吸って、ゴミのようにくしゃくしゃになり上から押さえた。
この時、進駐軍の検閲をひどくおそれたのが先生達であったことはすぐに分かった。
普段なら其処まで丁寧に教えないのに、この時だけは一つ一つ手を取って「言われたところはみんな消しなさい」と、とても忙しく優しく分かりやすく振る舞われたからである。
その頃、家に帰ると直ぐにしなければならないのが孝志の最初の仕事、水汲みである。
家から十数メートル離れた場所にある共同水道迄行かなければならない。家から五メートル足らずの所にも共同水道の蛇口はあるのだが、「此処はあなた達の指定の汲み場ではないから」と追い返された。こんな多難なときだからこそ、階段の多いこの場所では『あなたは小さいのだから特別に此処で汲んで行き
なさい』と少しの優しい言葉がかけられない
のだろうかと孝志は思った。
孝志はその場で「この意地悪婆ぁ」と声を大にして言いたかったが仕方なく、遠い所にある水道の蛇口まで行って汲んだ。
身長一メートルほどの孝志が、二メートルほどの担い棒を肩に、バケツ二杯の水をバランスよく担ぎ上げなければならないのである。見ていればすぐにその大変さが分かるはずなのに。それも平道よりも階段が多く、右肩をあげ、次は左肩を揺すっての繰り返しに、近所の人たちは『鳶が跳ねているようだ』と言って笑っていた。
大人の体に合わせて作られたバケツの底は、地面にすりつけそうで、思ったよりやっかいな仕事だった。ブリキのバケツの底は、階段に当たった数だけへっ込んでいった。
バケツ八分目にくんだ水も家に着いたときには半分に減っていた。家の中には大きな水瓶があって、それを満タンにするのが孝志の責
任だったが、結構大変だった。
何せ孝志は長男である。 母は神経痛で常に脚をさすっている。それをみるとつい優しく叩いてあげたり揉んであげたりしたくなる。すると母は気持ちが良くなり、眠気が差してついにうかつにも『おなら』を出したものだった。そして少しのお礼とお詫びに小遣い銭をくれて孝志をねぎらった。そんな母にも特技があった。明日雨が降ることだけは良く当てたのである。母の足がかゆくなると、なぜか翌日は雨が降った。「神経痛は痛いだけでなく天気の予報も教えてくれる」とそれだけは自慢していた。
母は裕福な家庭で育った。お嬢さん育ちというのは聞きようによっては品良く聞こえるが、こんな非常時(敗戦後)では「忠実」にも「器用」にも、上手に付き合いが出来ないらしい。結局、周りの人の行動を見て後ろからついて行くのが精一杯のように思え、不器用な自分を嘆いていたことがあるが、それで
もガラス工場で働かせてもらえると喜んで出
かけていったこともあった。
しかし長続きはしなかった。下の妹はまだ二歳、姉が母親代わりをすることもあったがやはり心配で働きにくかったのだろう。
生活はこれからが厳しくなってくる。
薪割りも、出来る範囲においては孝志の役割である。 少しでも早く燃えるように小さく割って、かまどの横に準備しておくと、母は仕事から帰ってきて「とても助かる」と云ってくれるので嬉しかった。
薪はいつでも貴重品であり、壊れた家屋の材木等は、薪にされないように夜通しでも管理しなければならなかった。そうしないと、たちまち持ち去られてしまった。
ラジオの情報も新聞も手に入らなかったので、多くの情報は風呂屋と町内会が頼りだった。 風呂屋は格別の情報源であったが、風呂に行くときには気を付けなければならない原則がいくつかあった。(一)履物は出来る
だけ安物にする。何故なら少しでも価値ある
ものを履いて行くと、帰りにはまず誰か他の人が履いて帰っていたのである。(二)石鹸も手元から離してはならない。少しでも油断すると隣の人のものになっていることがあった。それは貴重品であり、なかなか手に入りにくいので、『銭湯に行く度他人様のものをねらっている人が居る』と、あまりにもたびたびの出来事に注意書きが張り出された。
(三)大胆な人は、入ってきた人の様子を見
ていて、その人が湯船に入るなり自分の着てきた物とそっくり入れ替え、素知らぬ顔をして、他人様のいい服を着て出て行ってしまう有様。後で結構お客さんと主人との間でもめる事もあったが、最終的に今日よく言われる『自己責任』という事で納得させられていた。 孝志も大雨が降ったので銭湯まで傘を持って迎えに行った。かぶってきた傘は濡れているので、自分が差してきた傘を入り口に置いて、家族の分を直接渡して帰ろうとした。
しかし、外へでようとして見たら、たった今、
立て掛けた傘が何処にも無い。孝志が困って泣いていると、一人のおじさんが事情を知って「これ持って行きなさい」と孝志の傘よりいいものを手渡してくれた。「これ使っていいの?」と聞いたら「後で返しに来たらいい」と云われ、その通りにして翌日返しにい
ったら、銭湯の親父さんに「他人のものを勝手に持っていってはならない」と泥棒呼ばわ
りされた。その時の状況を説明したが、どうしても理解して貰えないで怒られてしまった。
なんとも『他人の傘』を自分の傘のように、
いとも簡単に貸す大人が憎らしかった。
兎に角、銭湯は盗人の楽園のように栄えて、何時も、もめ事が絶えなかつた。
雨と云えば、予告なしの雨には随分悩まされた。母の神通力も聞かないうちに突然の雨がバラバラとやってくると、瓦がずれたり壊れたりした後なので、(我が家の修理は順番待ち)大変だった。 雨が降り出すと、「も
う始まるよ」と母が合図する。一カ所でも雨
漏りの音がすると、ぽとりという音と共に洗面器、鍋、釜、バケツと周りにある何でも水を受けることのできる物を持って走り回る。
暫くすると、『ピチャピチャポットン』と大合唱が始まる。この音を聞きながら二日も三
日も過ごすと布団もまともに敷けない状態になるので、二間しかない部屋にうんざりする。
空が晴れるのを待って、濡れた物を慌てて外に出し、干せる場所には出来るだけ干して布団などは、梯子を掛けて屋根の上に広げた。
しかし父親のいない我が家は、八歳の姉と七歳の孝志が小さな働き手として幾らか期待されていた。時々、隣のおじさんに、手の届かないところや重い物に手こずっているときは助けてもらった。
戦時中は夜になると敵機から見つからないように、電気の傘に黒い布をかけて外に明かりがもれないようにしたが、今では日が暮れると、小皿に油を入れ、布を堅く織った芯を
その中に入れ灯火を暫く楽しんだ。黒い煙が
風の向きに沿って飛んで行くのは異様な思いさえしたが、暫く時間がたつと「もう油がもったいないから寝る準備をしなさい」と急が
され、いやがおうにも部屋の中は真っ暗闇。何故なら当時どんな油もやはり貴重品で、なかなか手に入らなかったのである。
マッチでさえも手に入らず、硫黄をもらってもらい火をするほど乏しかった。
しかし大変なのは夜中のトイレである。
ほとんど食べているものが水気のものばかりなのですぐトイレに行きたくなる。
それで寝ぼけ眼でトイレに行こうとするのだが、毎日行く場所なのに、真っ暗闇なのでなかなか目指す場所には行き着かず、まだ夢見心地。幾らかでもどこかに明かりがあれば分かるのだが、ただ手探りでこの辺だと決めつけるので、何度も何度も同じところを往復して、挙げ句の果てにはこらえきれずに、かまどの横や玄関先で済ませてしまい、親に何度
も叱られた。
結果としていつしか、布団の中で済ませてしまうようになり夜尿症になってしまった。
学問の価値についての見方
この夜尿症というのは本当にしつっこく数年間も孝志を悩ませ、弟にまで感染してしまった。一つの布団に弟と二人で寝ていたので、先にお漏らしに気付いたときは弟を自分が寝ていたところに転がし、夜尿症の責任を被ってもらった。弟は時々気付いて、突然大きな声を上げ「兄ちゃんがお漏らしした所に僕を転がしている」と叫んだので、その後弟との間で不信感が生まれた。それを知った母は寝る場所を変えてしまった。ところが今度は弟が夜尿症にかかって母を困らせた。
そんなわけで学問の大切さより、目の前の生活に追われ、翌朝学校に行って宿題を先生に提出するという認識が段々薄れていった。
一年の一学期には全科目が「優」で夏休み
が終わったら(一発の原爆投下によって)物
事の考え方をすべて変えられてしまった。
宿題も勉強も学校でするものと何度も教え
られ、休み時間にしようとするのだが、つい友達とのおしゃべりに引き込まれてしまう。
それでも昼休みにでも、やる気があれば出来るはずなのに、やる気力がなかった。
家に帰ってからは、鞄の中を開いても、翌日習う教科書と時間割を調べるだけで、いつしか『勉強が自分のために必要だ』との認識に欠けていった。そしていつの間にかすべての科目が良と可になっていた。
近所の子供が「お腹空いた」と泣いている。
すると直ぐ側にいた父親が「おまえは動きすぎるんだ、黙って寝てろ」と怒鳴った。それから「寝とったら腹は空かん」と一渇した。お腹が空くと本人だけでなく周りの者も苛立つものらしい。その点、孝志はいつも忙しくよく動いていたので、お腹は空いてもよく眠れた。それで、お腹が空くので他の人よりよ
く水を飲んだように思う。
ある時、ふかし芋を手にした女の子が美味
しそうに孝志に見せびらかしてほおばる様に食べていた。生唾が出る程のふかし芋、それ
も紫芋なのである。孝志は『どうせくれないだろう』と向こうを向いていると、その女の子が、芋を食べ過ぎて胸を叩きだした。
胸に詰まったのだと知った孝志は、慌てて柄杓で瓶の水をくんで渡した。女の子は有無も云わずに思いっきりその水を呑んで、孝志の方を見て「この水美味しい」と言った。
格別なものはなんにも入っていないんだが、よっぽど苦しかったと見えてお世辞を言ってくれた。それから今度は孝志の方に食べていた紫芋の半分を差し出して、「食べない」とにっこり笑って芋をくれた。芋と水は相性が良いということを孝志は改めて知った。
その後、水、水、水はとても大切なものだと言うことを知らされた。というのは断水の日が何度もあり、時間帯に間に合わなかった
ときには汲み置きがないので、母が洗い物や
洗濯に不自由しているのをよく見ていたからである。注意深く生活しなければならないこ
とを此処でも教わった。断水は時間が決められていて汲む人が一時に集中するのでバケツ
が十数個並んでいることも珍しくない。
それでも母は孝志を頼るしかなく、時間内の戦いは結構厳しかった。
厳しいことは沢山あった。はじめのうちは幾らかの蓄えもあった我が家の財産も残り少なくなっていた。子沢山だけに分け合うことから要領よく取り合うことさえあった。
母も、今考えれば多分『国債の証書』だったと思うが、紙屑同然のものを当分大事に抱えていつも枚数を数えていた。それも父が帰ってくるまで未練たらしく奧の奧に隠していたように思う。
早い人は一年もしないうちに、戦地に行っていた主人や息子が次々と内地へたどり着き帰ってきたと大騒ぎしている。それから周り
がなにかと騒がしくなって、帰還した兵隊に、
自分の主人、息子、あるいは婚約者などの部
隊の名前などを云って、少しでも情報を知りたいと集まってきた。言葉では「おめでとう、早く帰れてよかったね」といいながらも、家に戻ると少しのねたみに涙を流す人もいた。
また、その片隅では戦死の知らせを受けた家族が、『間違いであってくれたら』と耐えている姿が浮き沈みしている。
孝志たちが「父ちゃんも帰ってくるの」と母に聞くと、母は何時も「父ちゃんはみなさんより少し遠いところに行ったから、他の人より遅くなるかもしれんけん、お父さんが元気で帰るまで頑張ろうね」と、子供たちを励まし自らも耐えていた。
孝志の兄弟は四人だったが、一番下の妹は父が久留米の駐屯地から前線ビルマに渡ることが分かってから夫婦の愛情が頂点に達したらしく、それから一年足らずで妹は生まれた。
孝志は久留米の駐屯地まで母に連れて行か
れたが、何故連れて行かれたのか未だによく
分からない。母が一人では寂しかったのか、父が長男にだけでも最後に一度会っておきたいと云ったのか、多分その辺だろうと思う。
当然ではあるが、軍隊の訓練所に子供にと
っての遊び場などはなく、食べ物屋もお菓子屋も子供の気を引くようなものは何一つなかった。それで脇にある運動場の大きな木の下で、長時間待たされた事だけしか覚えていない。そのとき孝志の遊び相手をしてくれたのが大きな蟻の大群で、逃げたり追っかけたりして時間の大半を過ごした覚えがある。
父と母は二人で過ごした時間は分かっていたので、孝志が待ちくたびれているのに気付き、父が「お前の欲しい物を何でも買ってやるから言え」と言った。しかし、孝志が小さいからと言って、店屋のないところでそんな期待を持たせるようなことを言っても無茶な
ことである。それでも両親は孝志を喜ばせてやろうと何度も「遠慮せんと欲しいものを言
え」と言った。それ故、孝志は先程から丘の
上を登り下りしていたタンク(戦車)なら目の前にあるんだから買って貰えるかと考え、「タンクを買って欲しい」と云ってしまった。父は初めのうちはビックリしていたが、暫くして母と顔を見合わせ吹き出してしまった。そして孝志のことを「頼もしい」と云って褒めてはくれたが、結局なんにも買ってはくれなかった。
こうして父は四人の子供を残して戦地に赴いたのだが、敗戦国の家族にとっては、一人でも少ない方がよかった気がしてならない。
可愛い妹よ、こんな兄ちゃんでご免なさい。 そう言うわけで、暫く学校に通ったように思うが、ほとんど学問の価値をどう理解して良いのかさえ分からず、ずるずると日常の家族の生活の中に引き込まれていった。
言い換えれば、孝志は家族の中にあって、とても使い勝手の良い子供に育ったことは間違いなかった。
疥癬との苦闘
人間悪いときには悪いことが重なるものら
しく、孝志は疥癬という伝染性皮膚病にかかってしまった。『指間、腕および肘関節の内側、脇の下、下腹部、内股を侵しひどくかゆい病気』であった。体中が膿みだらけで、掻けば膿みと血が出て一時期かゆみは止まるが、今度はグヂュグヂュと気持ちが悪く痛みが辛い、天花粉のようなものを付けて乾かす。
いずれにしても当時病院に連れていってもらったことがない孝志は、近所の人の知恵や漢方ですべて治療を済ませた。皮膚が固まるまでひっかかないように云われるが、眠っている間に無意識に掻いている。(寝ているときは体が温もるから尚一層かゆい)完治するま
でには一年近くかかったのではないかと思う。
学校へ行くとみんなが臭いというので、当分治療に専念するように云われたが、当時貧
しい我が家に特効薬を買うお金などなかった。
とにかく体を清潔にして塩水に浸してもらっ
たように思う。疥癬が治り、同級生が受け入
れてくれるようになったときには、勉強が全く付いていけないところまで進んでいた。
家庭教師は雇えないし、先生は特別な教育手段を一人の子供に与えるほど暇ではなかった。当時、学校に行っていない、又は、学校に行きたいけどいけない子供は沢山いた。
家に帰ると子供はとにかく親の仕事を手伝うのが普通のことであった。手伝うことは沢山あって、孝志も姉と二人で弟と妹の面倒を見たり、神経痛のため、階段の多い長崎の街の上り下りに悩む母を助けるために、買い物以外にも階段を上ったり下ったりして、簡単なことなら手早く事を済ませて、家族の助けになるのは普通のことだった。
買い物も、云われたものをいかに安く上手に買うか随分訓練された。キャベツは見た目
の大きさではなく『持って重いもの』にする。
スイカは、はじいてバーンと音のいいものにすると、中身が詰まっていてみずみずしくて
美味しい等、兎に角、ずるくではなく賢く生きて行くための知恵を得た。サツマイモの配給があればまず孝志が担ぎ出され、家族の頭数にあわせて受け取りに行く。それでも不足するときは山手にある親戚の畑のくず芋を拾わせてもらう。
そうはいっても本当の屑芋で、小指か人差し指よりも少し大きいくらいである。
隣の畑を見ると、まるまる太った芋が次から次に掘り出される。又その隣の畑を見ると青々とした葉(いもづる)が茂り、「地中には大きな芋があるんだろうなぁ」とつい思ってしまう。しかしその畑の持ち主は、採っても
いないのに上の方から監視していて、「こっちの畑には近付くなよ」と大きな声で警告してくる(おじさん僕泥棒じゃないよ)。
こうして孝志は段々と大人の世界に首を突
っ込み、悪知恵も付いていった。
遊びや、興味の行動範囲も広げて、街の中心街にも出かけて行くようになっていった。
夕方になるころには「寝ろ」と言われなくても、食べるものさえ与えられたら直ぐに寝てしまうほど、孝志はよく動いて疲れ切っていた。大人同様、戦後の混乱期には、子供も不安定であったことは事実である。
それ故に一部の人であっても子供を育てるのが手に余って、『里子』に出したとの話はよく聞いた。 またある人は『命あってのものだねだ』と他人事のように云って、子供の勉強に無関心で、極端に云えば、「学校なんか行かないで何でも金になることを手伝え」と言っている親もいた。
闇市での饅頭売り
母もお金の必要を感じ、何処でどのように手に入れたのか『芋の粉』で得意な団子をこ
しらえると、「これを市場で売ってくれんやろか」と言った。姉は母を助けることならと喜んで賛成した。孝志は何処でどの様にして売ったらよいのか困っていると、姉には名案
があるらしく「一緒に来て手伝ってくれたらいい」と孝志を闇市に連れていった。
驚いたことに姉は、昼間は使われていない屋台を使ってそこで商売をしだした。確かに人の目線に饅頭を置くと感じが良く、それが湯気を立て、良いにおいを発しているなら人々の食欲をそそるのは間違いない、孝志は暫く姉のすることを見ていたが、何か怖くなって、少し離れたところにゴザを敷いて饅頭を並べた。地べたの饅頭はどんなに美味しくても、暫くするとほこりをかぶるし、悪いことには蠅までが飛んで来て饅頭の品質を下げる。
口の悪い人は「蠅のたかっている饅頭は腐っている」と言う。それを聞いた隣の商売人が、「蠅もたからぬ食べものがうまいはずがな
い」と切り返したのでとても可笑しかった。
いずれにしても並べただけではそんなに簡
単に買ってくれるものではない。ただ時間だけが無駄に過ぎていってお腹が空いてきた。すると隣でパンを売っていた子供が、「パン
と饅頭を交換しないか」と云った。
先程から『美味しそうだなぁ』と思っていただけに喜んで賛成してしまった。「ではこれで」と饅頭を一つ出すと「パンと饅頭では大きさが違うから、パン一個と饅頭三個にしょう」という。先程から全く売れなかった饅頭。
「もういいか」と残っていた饅頭全部交換してしまった。家に帰ると姉はすべてを売り尽くして、「明日はもつと売ってくるから」と得意満面、孝志のことも少しは気遣ってくれ
たらいいのに、とても張り切っていた。
母は「済まないねー」と云いながらもとても喜んでいた。ただし、孝志がしたことについては「やっぱり子供なんだね」と一つ違いで
も器用と、不器用にこんなに差があることを思い知らされ、それぞれの子供に同じ事を求めてはいけないことを学んだようだ。
孝志が闇市で遭遇したことでショックだったのは、日本人が異国人に囲まれて平謝りをしたのに、其処にあった荷物を取り上げよう
としている。「これだけは堪忍して下さい」と何回謝っても足蹴にして笑っている。
それを戦地帰りの一人の兵隊さんが、重そうなリュツクを背にして暫く様子を見ていたが、荷物を降ろすなり異国人の間に入り、「日本人を馬鹿にするな」と云って、いきなり殴り倒し、先程まで平謝りしていた人に「早く此処から立ち去れ」と急がせて逃がした。
すると周りに一緒にいた仲間が数人向かってきてその日本兵を殴ろうとした。それを先程から『どうしたものか』と見ていた数人の復員兵が中に割って入ったり、殴り返したりし、騒ぎは大きくなってしまった。
殴られた方は大声を出し、M、P(進駐軍の警察)や日本の警察に助けを求めた。その時ばかりはその場を取り巻いていた観衆は『日本の兵隊はまだ誇りを捨ててはいないんだ』と感動したものである。
しかし間もなくその騒ぎにM、Pがやってきて日本兵を追いかけた。次に日本の警察が後
からやってきて、やはりM、Pの後から日本兵を捕らえるようにと指示を与えられ一緒に追いかけていった。
『無条件降伏』の惨めさはこうして一般の人々の中にも悔しさと共に浸透していった。
しかし、多くの人が長いこと疑問に思い、口々に不思議なこともあるもんだと考えた事があった。落とされたのが原子爆弾だと分かったとき、長崎も広いのに、キリスト教徒の兵士が、東洋でもっとも大きいと言われるキリスト教会の浦上天主堂の真上に原爆を落としたことである。当然のこととして、キリスト教の信者の犠牲者は多く出たのだから、神様が本当にいるなら自らを崇拝している者を見殺しにしたことになる。たとえキリスト教が勝利を収めたとしても、問題は今後山積みになったようである。この場合、いざというときには神も仏もあったものではないとの複雑な結論で終始した。
買い出し
人間食べるものがなくなるとどんな努力もするものらしい。あの脚の弱かった神経痛持ちの母が、『諫早の奥地まで』買い出しに行くというのである。お供は決まって孝志であって他のグループと同行することはなかった。
汽車に乗って一時間はたっぷりかかる距離。その駅を降りて一時間余り山道を歩かなければならないことは行く前から分かっていた。
それでも母は、「孝志、明日は一緒に行こう」といつも通り孝志に声が掛かった。
商売は姉より下手だが、力は年の割にあったので、このようなときには頼りにされるのであった。また、母も一人で行くのは寂しいからということもあったらしい。
グループで行くと煩わしいこともあったのだと思う。いずれにしても長崎の街では、水田らしきものはほとんどない。段々畑に麦やジャガイモ、サツマイモなどがあったが、とても身内以外の人の手には入りにくかった。
『諫早市まで行けば何とかなる』と確信した母は、ありったけのお金と着物を持って朝早くから出かけた。諫早の農家の人に合う度に「米を分けていただけませんか」と尋ねると、「この辺ではもう分けてあげる物はないから、もう少し奧まで行ったら」と云われた。
仕方なく二人はもう少し脚を延ばすように教えられその通りに歩いていった。歩き疲れた頃、近くの人が近付いてきて「買い出しに来たのか」と声を掛けてくれた。
母はもしかしてと思って「この辺で米を分けてくれる人はおられませんか」と尋ねた。
声の主は「少しなら」と言って、「まあー、中に入りなさい」と玄関先へ招いてくれた。
お茶を出して頂いたので母が事情を話すと同情しながらも、「この近くまで買い出しに来る人のほとんどは、多少の事情の違いはあっても辛い思いをされています」と云って、最近のできごとを話し出された。最近のこと『妊婦さんが大きなお腹を抱えて近くまで買
い出しに来られたので、周りの人が同情してご飯を腹一杯食べさせて、米も持てるだけ渡して帰らせたのに、途中で産気づいて翌日まで誰にも気付かれずに親子共々死んでしまわれた。村の人も同情はしたけど警察の人がうるさくて、何人かの人は{闇米は政府の法律に違反する}と云って随分絞られた』と話された。それはそれとして母との取引にはのってくれて交渉が始まった。
初めのうちは少しの駆け引きで時間がかかったが、話をしているうちに、先方も息子が戦地からまだ帰っていないとのこと、どの方面に云ったか話しているうちに、その人の息子さんの部隊と父の所属する部隊が「龍部隊」で同じ状況にいることが分かった。
その事が分かってからは相手の態度が一変し、孝志の方を見て「この子お腹空いてるやろ、早う上あがってご飯でも食べさせなさい、あんたも一緒に少しくつろいでさっきの話の続きを聞かせて下さい」と、まるで身内を歓迎
するように優しく扱ってくれた。
母も気持ちは同じで、『父の様子がこの人から少しでも聴けたら』と親しみを込めて会話が弾んだ。ところで母が孝志の耳元で「いつもは少ししか食べられへんから、今日は腹一杯ご馳走になりなさい」と云ってくれた。
孝志は最近、自分で納得するほど食べたことがなかったので、とにかくよく食べた。
それでも先方さんは快く「よっぽどお腹空いてたんやな」と言って、次から次とおかずも準備して貰った。又、気前よく取引に応じてくれ、次に会えることを約束して送り出して下さった。しかしいざ引き上げようとした時、孝志は普段食べたことのないほど沢山食べ、腹が膨らんでいたので、帰り道で母が要求する程テンポよく歩くことが出来なかった。
背中に担いだ荷物はさることながら、それを取り外してもお腹が痛くて、いかに食べ過ぎたかを露呈してしまった。
母は物事には加減があると腹立たしく思った
らしいが、怒ると逃げるし、迎えに行けばごねるし、子供とはいえ逃げ足が早いので暫くは手こずったが、一言はっきりと言った。「次の電車で帰らないと今日は大変なことになる」と。孝志は時間を見計らって兎に角、母の指示に従った。時間的には何とか間に合ったらしく汽車に乗って西方の端、長崎駅へ
向かう。しかし、汽車の中では警察による点検が行われた。諫早のおばさんが、「リュックサックの下の方に米を入れ、上に野菜を入れなさい」と教えてくれたので何とかその場は逃れられたが、その後、『終着駅長崎で最終的な点検のため行列が出来ている』との情報があった。母は、途中では気付かれなかったが最後の長崎駅まで行く勇気はなく、一つ手前の浦上駅で降りて、暗い夜道を逃げるようにして何とか我が家までたどり着いた。
このとき浦上駅は原爆投下の中心だったので、荒涼として幽霊でも出そうな雰囲気を感じた。孝志はこのときもし警察官に捕まった
なら一言こういいたかった。『子供と女が担げる荷物はわずかなので、それだけは黙ってその辛さを分かって欲しい』。
それでも闇米は、待ち受けている人にとっては非常に大切なものなので高値で売れた。
しかし運んだ孝志達は米の飯には預かれず、儲けたお金でサツマイモ、トウモロコシのかすなどを買ってしのいだ。(現代で云えば豚の餌である)。 兎に角、此処は辛抱して父の帰りを待たなければと、母は父の帰りを固く信じていた。
実際的な知恵とは何か
その後インフレが激しい勢いで貧しい生活に覆い被さってきた。五十銭札で買い物が出来なくなった。十円札は新札になるため旧札には印紙のようなものを家族ごと配られて、その印紙のようなものが旧十円札に張ってないお金は使えないとの発表があった。
当時十円札が一番多く普及していたので、印
紙みたいなものの数に満たないものは紙屑にせよとのお達しである。
孝志はこのことから始めて悪いことをしたと未だに悔いることがある。印紙らしきものが張ってない十円札は簡単に手に入った。闇市の隅っこで女の子がお多福豆の炒ったのを新聞紙を丸めた中に入れて一杯十円で売っている。孝志はその豆が欲しくて暫くはその周りをうろうろしていたが、一旦決意してからは十円札を出来るだけ小さく折りたたんで「一つ下さい」と云った。その女の子もまだ手慣れていないのか、すぐに十円札と豆を交換してくれた。孝志は豆の袋を受け取るなり素早くポケットにつつこみ逃げるように走った。
ただその時孝志が記憶しているのは、孝志の仕草を見て女の子が素早く十円札を開き、其処に印紙らしきものが張ってないので慌てて追っかけてこようとした姿だった。転びそうになっても小さな体をくねらせてうまく逃げ通せたが、あとあじが悪いことこの上ない。
お腹が空いていたのでポケットに手を突っ込みさて食べようとしたとき、その女の子が孝志をみつけて孝志の前に立っていた。
孝志は何も言うことはなかった。ただ「ご免なさい」と頭を下げて豆を袋ごと返した。
するとその女の子は孝志の手を優しく握って、お多福豆を並べた場所に連れていき一握り渡してくれた。
そして、「わたしはお店の留守番をしてたの、それもあなたが今日始めてのお客さんよ、でも不器用だから仕方ないわ。あなたも、もうこんな事しては駄目よ」と悲しそうな顔をしてなだめてさえくれた。孝志は今思えば、なんと浅ましいことをしたものかと考える。その女の子の売場の台の豆の袋は孝志を探しているうちに二、三袋盗まれているように思えた。孝志は恐縮したが女の子はその事には全くふれず「あなたの名前はなんというの」と言った。孝志は少し名前をいうのが怖かったけど、おどおどしながら、やっとの思いで
「孝志です」と言った。するとその女の子は、なんの疑念も持たず「頑張ろうね」と言った。 『昨日まで貨幣として使えたものを大人の勝手でこんなややこしいことになって、もううんざりである』現地では大人から子供に至るまで食うか食われるか野戦状態にあった。
しかし、孝志は自分自身が少しの悪さをするが、芯から悪い人間でないことを証明した事もある。ある時、近所の五つ年上の兄ちゃんと街に出かけた時、女の人の買い物かごから財布が見えているのを兄ちゃんが発見。孝志にそれを取ってこいと言った。『冗談じゃない、それって泥棒ではないか』。しかし兄ちゃんににらまれたら怖くなり、財布から見えている五円札を一枚つかもうとした。全部ではなく五円札一枚なら許して貰えるかもと考えた。しかしその財布は、ふたがしっかり閉まっていて五円札が思うように出てこようとしない、それを横で見ていた兄ちゃんが『五円でなく財布を持ってこい』と合図する。
そんなことはとても出来ない。五円なら許して貰えるのではとドキドキしているのに。出来るなら兄ちゃんがやったらいい。と孝志は自分のしていることに罪悪感を覚えその場を逃げ出した。そして自分の良心が未だに正常であることを納得した。
当時あちらこちらで珍しいものや安いものが出回っており、よく黒山の人だかりが出来ていた。孝志も人だかりがしているので隙間
をぬって覗いてみると、ふかし芋が半値で売っている、急いで小銭を取り出し何とか手に入れた。
しかし、沢山のサツマイモを食べたことがあるが、未だかってこんなに不味くて繊維の多い芋は食べたことがない。早速周りから「なんだこれは種芋やないか」との声が聞こえた。それでもみんな腹が空いているので、お金を返せと言う者もいない、それも納得済みで安価な物に手を出したからである。孝志は種芋そのものを知らなかったが、二度と食べるま
いと決め、それで売っている人の顔をもう一度見ておきたいと思ってよく見たら、父親の三番目の兄さんだったので呆れた。
衣食住と言うが、家は何とか修復できたが着る物や履くものはすり切れるまで使ったように思う。食については一事が万事「なるようにしかならない」状態では衛生面が問題となり学童には虫下しが配られた。
先生が「虫が出た人は教えなさい」と言ったので、二、三日もすると、良いとか悪いの見境もなく「白くてこんなに大きいのが出ました」とミミズの親分ぐらいあったと得意そうに報告する子供もいたが、ほとんどの子供は小さな声で恥ずかしそうに答えていた。
孝志の場合も現代の水洗ではない、ポットン便所なので『どうしたら分かるのかな』と不安な思いで下を注意深く見ていたら、やはりミミズの大きいのみたいなのが白い姿をして出てきた。
それからというもの食事の前には手を洗う
こと、ハンカチ、ちり紙の携帯が何故必要かを徹底して教えられた。
町内では二、三着の服の配分があると聞くや家族の代表が、くじを引きにいった。
それが寸法があおうがあうまいが、当たりくじを引きさえすれば、物不足のこの時代何処からか聞きつけて、「欲しいから譲って欲しい」という人が現れたものだった。
交渉しだいではその当たりくじは十分価値があり家族も満たされた。
こうして戦後の復興が少しずつ進んでいった。学校でも始めて『あんパン』が一人一つずつ配られた。孝志にしてみれば生まれて始めてみるパンは格別の匂いと手触りがした。
先生は「みんな一つずつもらいましたか、では机の上に置いてそこでこぼさないように食べなさい」。続けてこうも言った。「持って帰りたい人は鞄の中にしっかり入れて持って帰ってもかまいません」。このとき孝志はそのパンの香りにすっかり魅了されていたので、
先生の最後の言葉に非常に戸惑った。
初めから一人で食べようなんて考えもしなかったし、持って帰ってかあちゃんに分けてもらうことは普通のことと思っていた。しかし、周りの多くの同級生が次から次と食べ出したとき、右手が鞄の中のパンをさわっていた。
『どんな味なのかなぁ。少し端の方だけだったらいいよねー』と自分を納得させ、親指と人差し指で挟んで口の中へ運んだ。やっぱり期待通り美味しかった。特に皮に少しくっついてきた小豆のアンが甘くて美味かった。
孝志は思った『もうこれ以上は駄目早く帰ろう』。だが先生は孝志の気持ちを見透かしたかのように、「みんなが食べ終わったら一緒に帰りましょう」と言った。孝志はみんなが食べているのを見て辛抱したがもう駄目「あそこのアンがうまいんだ」と友達のあふれんばかりにアンがのったパンを見つめていて、いつの間にか孝志は鞄の中に手を突っ込んでアンと思える部分を摘んでいた。『母ちゃん
に怒られる』との恐れと『少しなら』の葛藤の末、パンの三分の一まで食べてしまった。
このことをかあちゃんにどう説明したらいいのか家に帰るまで考えて得た答えは、かあちゃんに見つかる前に弟と、妹に握らせたらよいと思った。作戦はこうである。
入り口からはいるときは「ただいま」と言わなければならないので、裏口の閂をはずして滑り込むようにして部屋に入ったとたん、妹に見つかって大きな声で歓迎された。
それをみた母が孝志を見るなり、「どうして泥棒みたいな真似をするの、泥棒が見てたら同じ事をするじゃない」と怒られた。
しょんぼりとしている孝志に訳を聞いた母
は、「一人で食べてきてもよかったのに」と言いながら残ったあんパンを三つに割り、孝志と弟と妹に配った。その時孝志は言った、「僕もう沢山食べたから、かあちゃんも食べて」と。母は黙って向こうへ行き、タオルを片手に目を拭いていた。ただし孝志が未だに
納得できないのは、姉も学校で同じ物をもらったはずなのに、全くその事が話題になることはなかったからだ。
父帰還する
母は父が生きているかどうかを知るためにまじないを父の親(祖父)に教えてもらっていた。父の写真の上に穴あきの銅貨を紐でつるしてその銅貨のふれ具合を見るのである。何故なら多くの帰還兵の喜びをよそに、父は終戦後二年余り経っても帰ってこなかったからである。
一方。父の方も船の中で、長崎には大きな
爆弾が落ちてほとんどの人が死んだと聞いて、自分の家族も生きてはいまいと考えていた。
待ちに待った父が帰還した時、姉と孝志はその場にいなかったが、家に帰る途中で近所の子が「お前の父ちゃん帰ってきたぞ」と教えてくれた。家につくと父は身内への挨拶にいっていた。
父は、色の黒い四角い大きな乾パンと普通に見る小さな乾パンを持ち帰っていた。
孝志は父が帰ってきたからと言ってそんなに感動を覚えなかった。ただ父が「そこにある
乾パンを欲しいだけ食べてよい」と言ってくれたので嬉しくて仕方がなかった。何故なら父が帰ってきたからと言って生活がどう変わるのか分からないし、小さいときから厳しい人だとの印象が強すぎて、周りの人に「よかったね」と言われても実感がわかなかった。父も汚いすり切れた服装で浮浪児に近い孝志を見てどの様に思ったかは分からない。
しかし、こんな大変な時代に互いに生きて大きな怪我もなく会えたことは不幸中の幸いと言わなければならないでしょう。
誰が見ても無条件で喜び、嬉しさを隠せなかったのは母である。何故なら髪を解いて何かと準備するのにも落ち着きが無く、普段の母よりも、もっともっと美しくみんなに優しかった。
父も帰ってきて気を休める間もなく、闇米の買い出しや裏社会の中に生活を求めていった。買い出しは以前より規制が厳しくなると
同時に、百姓さんの方も「お金はもうええ」と断ってきた。お金に替わる物とはいったい何なんだろうと尋ねると、「あんた達着物は手にはいらんかね」と言う。それも安物ではなく錦紗の着物が欲しいと注文を出した。
人は与える方と受ける方とではこんなに立場が違うのだと孝志はその話を聞いていて思った。父の努力もあったのだと思うが、そのことを知り合いに話すと、「米が手に入るんだ
ったら」と言って、高価なはずの錦紗の着物が何処からか何枚も届いた。父はこうして小銭をうまく回し軍資金を準備していった。
すると暫くして福は向こうからやってきた。造船所が活気ずき、請負師としての仕事が軌道に乗り、新参者の父が突如頭角を現してきた(過去に三菱造船所の訓練学校の先生であったことが功を奏したらしい)。
男兄弟には恵まれ働き手には困らなかった。遊郭、バー、キャバレーが外国人の遊び場と
なり、賭博も違法ぎりぎりでなされていた。当時「英会話が上手なのは、水商売で働く女性だ」と言われていて、外国人相手にかなりの稼ぎを得ていたらしい。何故なら金銭については『飲み代と遊び代』を間違いなく伝えなければならないし、機嫌を取るのも手真似と英語ときている。初めのうちは外人とのコミニューケーションをどの様にはかったらいいかと戸惑っていた店の女性たちも、単語を上手に覚えてぼろ儲けできることを知ると、こんなチャンスはないと大胆に近付き、読み書きは出来ないまでも流ちょうな会話が見る見るうちになされていった。遊ぶだけ遊ばれて損をしたなんて、そんなぶざまなことはあってはならない。頂く物はきっちりといただき、相手の欲しがる物にも上手に値を付けて渡したらしい。缶詰にビスケット、チョコレート、お人形と貰える物は何でもサンキュー
から始まった。
そんな中でも孝志が不思議に思って今でも謎が解けないことがある。それは山口君という孝志の同級生のお姉さんのことである。
孝志の姉と同じ歳なので、当時、小学五年の
はずである。四人は、小さいときからよく一緒に遊んでいた。
確かに父親が戦死したので、生活が大変だということは誰の目にも明らかだった。
それで同情する人も多かったが、まさか小学
五年生で、外人と腕を組んで、お菓子や人形を手や腕からこぼれるほど買ってもらって、いちゃつきながら家に持ち帰っている姿にはほんとうに驚いた。
弟の山口君は特にいじめられっ子というのでもないのに、学校では何をするにしても消極的で、喜びの少ない可哀相な子供に見えた。
それゆえ、『あの大男と小さくて可愛い女の子との関係はなんだったのだろう』と思わざるを得ない。
父は、大事な用事は花街で済ませていたので、家に大事なお客様が来ると、孝志が連絡係となった。残念ながら今のように電話は普及しておらず、我が家にも無かったからである。もし間違って映画館にでも行っているなら、薄明かりを頼りに数件の映画館を探し回らなければならない。当時映画館は五カ所ほどあり、前列から後ろに向かってキョロキョロと何回も行き来しては、時間をかけても父を捜し出すのである。
ところで父はヘビースモカーで、たばこがないと他の人が吸った吸い殻でも平気で吸っていた。(多分戦地においても内地でもストレスに悩まされていたのだと思う)。
特に被害を被ったのは姉と孝志である。
たばこの配給があった時は、みんなが早朝から並んで、仕事に行く前に一箱づつ買い求めた。『光』と呼ばれたきついたばこを買うために、姉と二人で寒さに震えながら長時間並び、その後食事をして学校へ行くのである。
当時子供は、父親の言うことには絶対に従うのが普通であったから、どんなに眠くても、父を喜ばせることなら絶対的なものとして受け入れた。今思えば『ずいぶんと無理難題を押しつける人だった』と父のことを思うが、それでもその時には目的を果たしたときの満足感を考えれば嫌なことはすぐ忘れられた。
何であれ両親の喜ぶ顔を見ていると、自分も
役に立っていると、自分に出来ていることを誇りにさえ思えたのである。
その頃、次男は兄貴に逆らわないのが常とされていた。
長男の持ち物は長男の物、弟の持ち物で気に入った物があれば兄が没収することさえあった。しかしである、兄の持っている物が余ったらすべて弟に回したが、弟が喜ぶほどよい物はほとんど残っていなかった。
家庭訪問
こうして孝志は戦中、戦後を何一つ目的も
持てず、その日暮らしの生活を長いこと経験した。
そんな日本に観光客が来るという。長崎には闇市とがれき以外に『ハイどうぞ』と見せられるものなど無いのに、何を楽しみに来るのだろうと孝志は思った。カメラを片手に、敗戦で疲れ切って荒れ果てた日本の人々の実生活を写真に撮り、生きて行くためにどう這い上がって行くのかを実感しようというのだろうか。本当に長崎の美しさを観たいのなら、見て貰う方にも準備があるので、準備が整うまで待って欲しいと思う。
観光客に、いかに気分良く、くつろいで貰えるか努力しているとき、その場の状況も理解して欲しい。手作りのどうでも好いようなものを、物珍しそうにキャキャ言いながらお土産に買い込んでいるが、実際には互いに言葉が分からないので、お金のやりとりにも困り、冷やかされているようで、日本の芸術品をそんなに高く評価してのものではないよう
に感じる。
孝志の父は、生活が少し落ちつくと、やはり子供の勉強が気にかかってきたらしく、ある日、参観日でもないのに両親がそろって学校へやってきた。
担任の先生も不思議に思ったらしく、授業の終わり頃に「何故来られたのか」と孝志に尋
ねたが、孝志は何も聞いていなかったので答えられなかった。 しかし答えが得られたのは、それから一月後のことであった。
今度は担任の先生の家庭訪問である。
父は、孝志の学力がどの程度のものかを確認するために早速先生に相談した。 先生の返事は「他の生徒に相当遅れをとっている」とのことだった。その日の夕食後、父は早速孝志を呼んで勉強に対する関心の程を聞いた。
「勉強は誰のためにするのか」と突然尋ねら
れた。未だかって自分のためなどと考えたことがなかったので、「父ちゃんのためです」と答えてしまった。父は本人のために勉強す
ると言ってくれると思ったのに孝志の答えを聞いて愕然とした。それから、「何故父ちゃんのために勉強すると思うのか」と繰り返し聞いてきた。孝志は本当にそう思っていた。
学校は「行け」と言われるので行き、勉強は「しなさい」と言うから、怒られないために
する。何であれ『しなさい』と言われるので、従っていたらいいのだと考えていた。
父はあきれた顔をして次にこう尋ねた。「お前は今クラスで何番目ぐらいにいるのか知っているのか」孝志は「一番下だと思う」と答えた。父は何故こうなったかについては自分たちの方にも責任があることを知っていたので、その事で怒ろうとはしなかった。
そこで孝志は一言、自分より勉強が出来ない子がいることを思い出して言ってしまった。
父は、「ほーう」と、いたく関心を持って「そのお前よりもできない子供とはどんな家庭の子か」と尋ねた。孝志は言った。「貧しくて、親の手伝いをしているので此処一年は
学校にきていない女の子だ」と。父は腕組みしながら「なるほどそれなら分かる。ということは学校にきていて、一番出来の悪いのがお前だと言うことになるな。では、お前一年落第したら、真ん中ぐらいにはなれそうか」
と意地悪な質問をしてきた。孝志は考えた。
小学生が落第するとはどんなに屈辱的なものかを父は本当に分かっていない。今から成長しようとしている子供が、生涯、自分の価値を一ランク落として生きるのは、ものすごく辛いんだと言うことを!。
当然「そんなこと保証できません」と答えたら、父は意地悪にも「二年落第したら一番になれるか」と尋ねた。
まさかの言葉に孝志はあきれて、はっきり
「自信ありません」と言ったら、「じゃあそのままの学年でおれ」と言われた。
それを言うのなら、嘘でもよいから「今からでも思いを入れ替えて、今の学年で一番になれないか」と言って欲しかった。
喧嘩についても同じ様なことがあった。
父は小さい頃、年上のガキ大将を懲らしめるために、彼が何時も通る時間帯に、通りのもの陰に隠れていて、一升瓶で思いっきり頭を
叩いたら二度と嫌がらせをされなかった。と話して、孝志にもたまには思い切ったことをして自分の存在をアピールするように勧めた。孝志は力には自身があったが、他人を殴ることにはとても抵抗を感じた。身内は結構多かったので、集まると、最近周りで起きたことや、それぞれの自慢話、ましてや子供の自慢話はつきなかった。そして帰り際にそれぞれが、「孝志も男の子だから強くなれよ」と言う(喧嘩に対してである)。
それから孝志は夜中によく喧嘩の夢を見るようになった。孝志は相手が殴ってきた時に思いっきり叩いてみたが、殴られても殴っても痛くない。と言うよりも、何度も殴ろうとするのに、腕も手も思うように動かないのが現実で、実際は相手を夢の中でも殴ったこと
がない。 しかし、何度かの夢の中の格闘で本当に手応えを感じたことがある。
「やった!」と思った。腕が動いたのである。
感動ものである。それからは何とか腕が動き、これならこれからもやれそうな自信もついてきた。
ある時、父が孝志に「お前、最近寝癖が悪くなったな、何で寝てるのにあんなに動くのか」と聞いてきた。よくよく話を聞いてみると、孝志が初めて手応えを感じた相手は父の顔で、思いっきり父の顔を殴っていたらしい。
その後父は、孝志が喧嘩で強くなることを一度も要求したことはなかったが、ある日、
孝志は遊びに夢中になっていて、遊び場となっている階段を何段も飛び跳ねているうち、真夏のことなので、家族のためであろうスイカを大事にもつて上ってきた男の人に体当たりしてしまった。
下の方にある市場から、ようやく家の近くまで持ってきたスイカをグチャグチャにして
しまったのである。
幾ら遊びに夢中になっていてもその結末を知
らないわけはなかったが、孝志はそのまま駆け下りて暫くは家に帰らなかった。日も随分沈んだ頃、遊び友達の一人が「お前とこの父ちゃんが探しとったぞ」と言った。父は常々、目上の人に対する礼儀は厳しくしつけていた人なので、こんどばかりは相当に覚悟を決めて帰ることにした。孝志が頭をうなだれて家の中に入ると、父は一喝するかと思ったのに、思いも寄らぬ言葉をかけてくれた。「お腹が空いたやろ、早く此処にきて食べろ」と言う。
どう考えても父の性格からして理解しがたい。
きっと父はまだスイカの件は知らないので優しくしているに違いないと孝志は思った。
だからどうしてもお膳の前には座りにくくて部屋の隅っこでぐずぐずしていると、父の方からスイカの件について話してきた。
「孝志、お前は近所のおじさんに体当たりしてスイカを割ったらしいな」。孝志はビクッ
として、『そらきた』と思った。
すると、「スイカの代金は弁償しておいたから心配いらんぞ。しかし、ご免なさいぐらい言わんとなー」と父は言って、別段機嫌を損なっているようにも思えなかった。
孝志は、お腹も空いていたので、恐る恐るご飯を食べて、その日はすぐに寝た。
後々聞いた話だが、そのスイカを持っていた人は、近所では一目置かれるほどの暴れん坊だったらしく、父も事情を知ったときは、すぐにそれに見合う支払いをしたらしい。
先方も父とはよく知っている間柄で、「元気
のいいお子さんですなぁ」で物事は収まったらしい。
ところで父の考えは少し違っていた。
あんな気の弱い孝志が、悪いこととはいえ、あの大きな男性に正面から突き当たって逃げ切ったことが、何か楽しくてならなかったらしい。親しい仲間には「うちの息子は結構根性があるんだ」と自慢さえしていたらしい。
父は、孝志が学問で身を立てるのではなく、体力で身を立てることを喜んでいるらしい。
父も三菱重工業の職工学校の先生をしていたらしいが、学歴としては大したことはなかったと聞いている。しかし、二度の兵隊暮らしで周りの人からの人望は篤かった。
戦後当分の間、長崎には長屋が多いためかねずみ、蚤、シラミ、南京虫が長い間一掃されることはなかった。母はいつも愚痴って、「何とかならないのかしら」と相談していたことがあった。それはよく育った、町内でも
ボスのように振る舞う大きなネズミのことである。父が戦地から帰ってから家族は六人に増えていたので、ご飯を炊く釜も大きくなっていた。当然の事ながら、上に載せる蓋も相当に重い大きな物だったのに、夜中に例の巨大ネズミがでてきて、その大きな釜の蓋を動かして、中の物を食べようとするのである。
何度かねずみ取りを仕掛けたが、あまりに大
きくてねずみ取りに入りきれないと噂された。
父はネズミのでてきそうな時間を見計らって、火鉢を囲みじーっと座っていた。
図々しくもそのネズミは、人様がまだ起きていることが分かっているのに堂々と行動しだしたのである。父はタイミングを見計らって、火鉢の中に差し込んである鉄の火箸を手のひらに掴み、一瞬のうちにそのネズミめがけて投げつけたのである。
飛んでいった火箸は目的を逸することなくネズミのお腹にぶすりと刺った。
母が喜んだのはこの上ないが、父の評価「自慢」はその日のうちに近所の噂となった。孝志は、父が戦場から帰ってきて後、近所の人と交わる度に自慢話をするのは聞いたことがあるが、目の前で実際に大きなネズミをしとめたのには感動した。父は、「男という者は、いざというときにはこうでなくてはならない」と言って、家族に手本を見せることが
出来たことを自らも喜んだ。
母はその後、どうしても『煮物をしたい』
と思ったのであろう。いつものように孝志に醤油を買いに行かせた。 当時は醤油も一升瓶も大切に扱われた。味噌、醤油が量り売りされていた頃だったので、近所で貸し借りすることもあった。階段の多い町なので『一升瓶は左手で持ち上げ、右手で上の細いところを持つように』と何度も教えられていのだが、つい先程、父親の凄腕を見せられた今、つい『右手一本で一升瓶ぐらいもって帰れる』と、気が大きくなった。そしてカチンと変に鈍い音がした。慌てて一升瓶の底を見ると、石段に当てたらしく、醤油が漏れてきたかと思ったらパリンといって砕けるように割れてしまった。孝志は悲しさより悔しかった。身長も以前より随分伸びたはずなのに、ちょつとの油断でこんなぶざまなことになってしまった。
釣り銭の小銭を片手に『どうしたらよいもの
か』と暫くぼーっとして歩いていたが、途中にある、地蔵さんを何体もおいた建物の所に腰を下ろした。そして一言「おれ死にたい」
と言った。何をしてもまともなことが出来ない自分が、ほとほと嫌になってしまったのである。帰って事情を話したら、両親とも先程のネズミの件でまだ機嫌がよかったので、注意を受けるだけで済んだ。
父は出かける前に、孝志の顔を見ると「勉強しとけよ」と言った。今日は通知表を見た後なので機嫌がよくない。孝志は「ウン」と
いって父を見送ったが、孝志にしてみれば、何をどの様に勉強したらいいのかが、未だによくのみ込めていなかった。
父が帰ってくるまでには当分時間があるので暫くぼーっとしていたら、父が「ああ忘れ物をしてしもた」と言って急いで帰ってきた。孝志はビックリして、父の顔を見るなりトイレに逃げ込んだ。父は何か捜し物をしている
ようでなかなかでていかない。
暫くは頑張ったのだが、父も「ション便をして行くから」と声がかかった。仕方がない、済ませることを済ませたら出かけるだろう、
とトイレから出ると、入れ替わりに「勉強してないじゃないか」と言われた。なんとしつっこい親だろうと思ったが、やっぱり出かけに言った。「孝志、勉強はどうしたんか?」孝志はとっさのことに、机の上にあったハガキを見せて、「今これを勉強していた」と言った。それは父の友人から来たハガキで、孝
志が読める代物では無かった。
父は孝志の方を向いて、「お前本当にこれが読めるのか」と聞いた。そして「他の人に来た手紙は読むものではない」と一言付け加えて又でていった。
一日の贅沢と貧しさ
孝志は、和箪笥の引き出しを何となく引き
出して驚いた。其処には、百円の新札がぎっしり詰まっていたのだ。暫くそれを見ているうちに『一枚だけもらっても分からないだろう』と思うようになり、一束取り上げて一枚抜こうとした。しかしこの一枚が抜けてくれ
ない。仕方がないので五枚ほど掴んで引き抜いたら封が切れてバラバラになってしまった。
『もう駄目だこれだけバラバラにしたのだからすぐにばれてきっと怒られる』と思った。
しかし人間とは大胆なもので、どうせ怒られるのなら少しだけ使おうと考え、五枚だけ
くすねてしまった。当時の五百円は子供にとってとても使いでがあり、弟も一緒に連れだしてポケット一杯に好きなものを買った。
しかし常々食べたい欲しいと思っている物のほとんどは駄菓子やですませたので幾らも使っていないのだが、孝志にはとんでもない贅沢をしたように思えた。しかし悪いことはこんなに早く見つかるのかと思わされたのは、
映画館の一番前で並んでみていたら、横に父が座っていた。父は怒こりはしなかったが、すべての残金を取りあげられ、家に一緒に帰ることになった。
しかし家の近くまで来ているのに、一言も言わないので尚怖くなって、父が前を行ってい
るのを幸いに、弟に合図してすぐ横に二人で逃げた。だが、夜も更けてくるとだんだん不安になってきて『どうしたものか』と家の近くをうろうろした結果、叔父さんが飼っていた犬小屋のことを思い出した。大きな犬だっ
たが今はもう死んでいない。弟は嫌だと言ったが何とかなだめて、その犬小屋で一夜を過ごした。普段は夜尿症の心配をする二人だがこの日は二人とも大丈夫だった。
目が覚めると仕事に出かける人たちがざわざわと動き出しなかなか外にでられなくなった。二人は地面が冷えているからか同じようにション便をしたくなった。当分の間、手で摘ん
で辛抱したが、耐えられなくなつたので、服に掛からない程度にゆつくり放尿した。
まさかだれも気付くまいと思ったのだが、二人が一緒に放尿したのだから量が多かったらしく、通りがかりの人が気付いて、「この家又犬を飼ったのかな、それにしてもしつけはしっかりせんと何でも最初が肝心やからな」
と、分かったようなことを行って遠ざかって行く、人通りもだいぶん落ちついたようなのでタイミングを計って表にでた。
夏休み中だったので、学校のグランドへ行
けば何かあるかも知れないと気楽に出向いたが、何時間経っても友達には会わなかった。お腹はだんだん空いてくるし、お金は一円も持たせて貰えなかったので、弟が「家に帰ろう」とぐずりだした。「仕方ない家までいつて誰もいなかったらご飯だけかき込もうか」と、子供の浅知恵がもだえ始めた。二人で家に付くと弟が母にすぐに見つかった。
(わざと見つけられるように近付いた)。
母は弟を見ると「昨日の晩はどうしてたの、お腹空いたでしょう、早く手を洗ってこっちに来て食べなさい」と言い、弟は手早く食べ出した。
孝志はよだれがでる想いで、「自分の分も残しとけ」と言いたかった。
母は孝志が近くにいることは分かっているよ
うで、一言も「孝志はどうしたの」と聞こうとしない、勝手知ったる裏口から見ていて、それがだんだん腹が立ってきた。
弟も「兄ちゃんも其処にいるよ」ぐらい言っ
てくれたら何とかなるのにと考え、見まわすと父がいないのを幸いに、何もなかったような顔をして「僕もご飯ちょうだい」と言った。母は「もうすぐお父さんが帰るから待っていなさい」と厳しく言った。やっぱり弟のようにはいかなかいのかと母を恨んだ。
弟も孝志のことを全く気遣わず、美味しそう
にパクパクやっている。
『やっぱりこういうときには兄貴が責任をとらされるのか』と覚悟していると、時間を計ったように父が帰ってきて一喝、「馬鹿者!」と言った。
それから「何故五百円持っていったのか」と聞かれ、「最初見つけたときには一枚ぐらいと思ったのに、封が切れてしまつたので欲がでてしまった」と話すと、父はその件につ
いては「お金の札束に封をしているのは、百枚ずつに分けるだけでなく、一枚も加えることも抜くことも出来ないようになっている」と言って、孝志の言い分を笑って了解したが、「自分の家のものでも黙って持っていったら『泥棒だ』」ときつく言い、ご飯は夕方までお預けとなり贅沢は一瞬の出来事となった。
夕食を済ませると母は二人を銭湯に連れていってくれた。帰りに孝志は美しい満月を見ながら落ち着きがなかった。孝志が右へ左へ、
または前へと、速く走ったり、後ろに戻ったりするので、母は少し気になったらしく「どうしたの」と聞いたので、「あの月が何時までも僕の行くところへ付いてくるのでどうしてかなぁと思って」と言ったら、母は笑って、「お月さんはお前が好きだから、家に帰り着くまで転げないようにお前を案内してくれているんだよ」と言った。そして一言、「お前が悪いことをしたら、お月さんは雲に隠れてしまうかも知れない」と付け加えた。
いなかったネズミと、いたネズミ
新しい家に引っ越してからもネズミが走り回る音がする。孝志はその音を聞きながら、いつかは自分の手でしとめてやろうと考えていた。ある日の夕方、父がしたときと同様、孝志も火鉢の前に座っていた。そして考えた『もしネズミが来るとしたら炊事場であり、何かをあさりだしたら仕留めてやろう』と火
箸を何度も右手で掴み準備していた。しかし今日にかぎつてネズミは全く動かなかった。
孝志は一瞬、もし今そこにネズミがいたら、このようにして仕留めて見せるとの思いが先走って、持っていた火箸を投げてしまった。
火箸は孝志のねらったところを遠く離れて、通路に面した炊事場の板の間に当たり、跳ねたかと思ったら窓ガラスを割って表道りまで飛んでいった。
暫くして「この火箸あの窓から飛んできたが、何で自分の家の窓を叩き割ったのか」との会話に孝志も恐縮してしまった。
その声を聞いて、母は慌てて外に飛び出し、事の次第を聞くと、周りの人に怪我はなかったか尋ね平謝りをしていた。
常々父の自慢話を聞かされて、一度は見返してやろうと思っていた自分が、いかに未熟者かを本当に思い知らされてしまった。
ある時ラジオが壊れた。
当時ラジオは今日のテレビ同様貴重品だった。
大きな箱の中に大きなスピーカー、真空管がいくつも並んでいた。父は浪花節を聴くのが楽しみで、孝志に「早く直してきてくれ」と言った。孝志はラジオを風呂敷に包んで、父の機嫌を取るために急いで持っていった。
電気屋さんは「急ぐのか」と聞いたので「お願いします」と頭を下げると、今やりかけた仕事をやめて、孝志のラジオを優先してもらえた。風呂敷包みを紐どいてラジオを取り出すと、裏向けてドライバーでねじ釘をはずした。中はスピーカーの紙がぼろぼろになっていて、手を入れたとたん其処から小さなネズ
ミがとびだしてきた。
その瞬間電気屋さんは「えらいもの貰うてしもうた」と悔しそうに言って、「もう今日は仕事にならん」と奧の間に引き上げてしまった。家に帰ってその事を父に話すと、「悪いことをしてしまったな、あんな所に入っていたか」と言いながらも「今日からは静かにな
るな」とも言った。ではあのラジオ、明日誰が受け取りに行くのかな、答えが怖い。
海水浴場でのパンツ(三角巾)
長崎には学生が定期的にゆける海水浴場が港外にあった。島の名前はネズミ島、名前の由来は定かではないがネズミの形に似ているとか、以前はネズミが多くいたからと聞いたことはあるが、幸か不幸か孝志はネズミをその島では見たことがない。明日は恒例の丙の二テストが行われる。父はその事を知って、「新しい三角巾を買ってくるように」と、必
要なお金を渡してくれた。気分良く繁華まで
出てお店を探していると、以前財布を盗ませようとした、兄ちやんとその友達が近付いてきた。「何処に行くの」と聞くので、「水泳の三角巾を買いに行く」と言うと、「いい店知ってるから一緒に行こう」と言う。
ほっといて欲しいが、むげに断るのも怖いの
で一緒に行くと、「どれがよいか試着してみろ」と言われ、ズボンとパンツをはずし、其処にある三角巾をつけてみた。こんなものそんなに大きく寸法が変わるわけがない。「これでよい」と兄ちゃん達に言おうとしたら、孝志のズボンとパンツをもって向こうの方へ走っていった。
孝志は一瞬ビックリしたが、恥ずかしくてこのまま突っ立っているわけにも行かず、ズボンの中にはお金が入っている。兎に角『お金を取り返さなければ』と、孝志は追いかけた。
追いつくとすぐにズボンを返してくれたので
代金の支払いに行こうとしたら、「この金は兄ちゃん達が貰っておく、お前も買いたい物
が手に入ったからいいじゃないか」と言った。『本当に悪い奴だ』と思い、その事を父に話すと、もう一度店の方に支払いをして貰った。 ネズミ島までは桟橋をでてから一時間以上掛かった。今日は気分よく試験に挑戦、自信
はあったので早速支度に掛かったが、肝心の三角巾がない、忘れてきたのである。
この島にはかき氷は売っていたが、三角巾を売っているとは思えなかったので、仕方がない、紐を腰に巻き、持ってきたタオルを挟んでふんどしにして試験を受けることにした。初めのうちはなんと言うこともなくネズミ島一周に挑戦していたが、タオルがはずれはしないかとの心配はあった。しかしその考えが間違いでないことは数分で証明された。
『何か絞まらない』と思って紐の所に手をやると、いつの間にかタオルとさようならをし
ていた(空気が入りすぎて圧力でもっていかれたらしい)。『どうしたものか』と思ったが最後まで泳ぎ切った。その後いくつかの競
技に合格し、残されているのは立ち泳ぎと、伝馬船に仕掛けられている櫓からの飛び込みである。
立ち泳ぎに挑戦しているとき試験管が手の動
きを見た後、潜って脚の動きを観察しだした。それから孝志の近くに来て、「お前このまま櫓の上から飛び込むのか」と言った。
そんなこと出来るわけないから今考え中なのである。本当に心配してくれるのなら、三角巾を一枚探してくれたらいいのにと、その試験管が恨めしかった。
後日、同じ試験があったので、再挑戦して合格何となく物事に対して自信がついてきた。
始めてのラブレター
孝志の姉は中学一年の時からよくもてた。
ラブレターが何通も来ていて、気に入った人には返事を出していた。孝志がなんとなく母の弟にそのことを話したら、「好きな人がいたら出したらいい」と積極的に勧めた。
特別異性に関心があったわけではないが、交換日記ぐらいはしてみたいなとは思った。
すると兵隊帰りの叔父さんは「自分が書いて
やる」と言ってさっさと書き出した。
見ていると、書き出しから、孝志にはなんの事やらさっぱり分からない言葉ばかりであった。
まず、小生はと書いてある。続けて青天の霹靂と書き出した。孝志は「もういい、やめとくわ」と言ったが、叔父さんの方は退屈しのぎに次から次にすらすらと書いて、「これでいい、立派な恋文だぞ」と言い、「返事は必ず返ってくるぞ」とも言った。
仕方がない、姉ちゃんみたいに『返事が貰えるんだったら』と思い切って送付してみた。
返事はいつまで立っても来ない、叔父さんに
「どうなっているの」と聞いたら、「親が先に見たのかも知れない」と言った。それで「どうしたらいいの」と聞くと、「今度はお前の気持ちを素直に書いて、封筒の左下に
『親展』と書いておけ」と言う。「親展って何?」と聞くと、「親展とは親でも開封して
は駄目ですという意味だ」と教えてくれた。
孝志は不安ながら、長い時間をかけて手紙を書いた。翌日学校から帰ると父が、「お前ラブレター上手に書くな」とからかった。「最後の文面に、お休みなさいとはいいね」とも言った。
昨夜寝る前に枕の下に敷いて寝たので、忘れていたのである。『どうして手紙一枚でこんなにもどじを踏むのだろう』と思いながらも、『父が認めたものならいいか』と思い、叔父さんに言われたとおり『親展』と書いた。
返事については一度も貰ったことがない。
叔父さんに改めて「これはどういうこと?」
と聞いたら、「やっぱり子供が親展と書くのはよくないのかな」と言った。
その後、その女の人には何度も会ったが、ずーっと無視されてしまった。孝志は『自分は、こんな事に関して不器用なのかも知れない、
当分姉のやり方を見て見習わなくてはならな
い』と思った。その点姉には何でこんなに沢山の恋文が来るんだろうかと不思議に思える。
貸本屋での出会い
孝志は一つだけ気になってならないことがあった。小学六年生になったとき父が家を建てたので引っ越しをすることになった。
父は暇なときには武勇伝についての本が大好きで、孝志に貸本屋を何度も往復させた。
本屋も、新しい本がでると父のために準備していて、いつでも読んだ物を持っていって新刊と取り替えていた。孝志もついでに漫画の本をその場で読むことが許された。
ある時、本屋さんが父の本をそろえて「孝志ちゃん、此処において置くよ」と言った。孝志も読んでいた本を置いて、支払いのためカウンターに近付いた。すると一人の女の子が近付いてきて「あなた孝志ちゃんじゃないの?」と聞いてきた。
孝志には見覚えのある顔なのに、どうしても
思い出せない。孝志がキョトンとしていると「覚えてないの? 残念だわ。ほら、お多福豆」と言ってクスリと笑った。孝志はビックリした。
あれは四年前のことだったので、忘れるはずがないのに、この女の子はあの時と随分変わっていた。風体があがらない孝志に比べて、当時からさっぱりした感じのいい洋服を着ていたが、今は当時と雰囲気が全く違うのである。孝志が少しもたついていると「孝志ちゃん本読んでるの、素晴らしいわね」と気軽に話しかけてくる。孝志はばつの悪い思いで下を向いていると、「どんな本読んでるの、わたしにも見せて」と言って、もっと近付いてきた。
孝志は「漫画の本を読んでいて、片づけたところだった」とは言いたくなかったので、「今日は父の本を借りに来たんです」と言い、慌てて父に頼まれた本を受け取りに行った。
「孝志ちゃん、今何処に住んでるの?」と妙
に関心を持って聞いてくる。
「石橋の方です」と曖昧に答えた。すると「偶然ね。わたしも石橋に住んでるのよ」と変に会話が弾んできた。
その結果、「では其処まで一緒に帰りましょうか」と言われ、渋々並んで歩きだした。
孝志はその女の子が嫌ではないんだが、過去の出来事が尾を引いていて、出来れば会いたくなかつたし辛かった。その女の子は「わたし加代子というの」と自己紹介をした。
歩きながら話しているうち「孝志ちゃん大浦
小学校でしょう。わたし同じ学校の卒業生なのよ」と言って、いきなり先輩顔をしてきた。
それから「此処で暫く待っててね、渡したい物があるの」と言って近くの家の間を入っていった。
しばらくしてから戻ってくると、「わたしも本を読むのが大好きなの。これ、わたしがとても気に入って大事にしている好きな本の
一冊なの。孝志ちゃんにはどうしても読んで欲しいの、貸してあげるから是非読んで。読んだら感想だけ教えて」と孝志は勝手に読書好きにさせられてしまった。
押しつけられたみたいで嫌だったが、それでも加代子さんが大事にしている好きな本とは、いったいどんな本なのか、それについては興味がわいて少しのぞき見したい思いがした。考えてみると、今、加代子さんが出入りしてきたあの家は、孝志が前から興味を持って見ていた家のように思えたが、加代子と聞いただけで、名字を聞いていなかったので、家を確認する事ができなかった。それで『何かの間違いだろう』とそのまま家に帰った。
近所では、何でも噂になるが、この近くに姉より一つ上の女の子で、とても頭のいい子(知能指数が高い)がいるとの噂は聞いていた。孝志はその家の前をよくうろうろした。
でも、まだその子の顔を見たことがなかった。姉に聞くと「色の白い、ひ弱な感じのする
人」だという。引っ越してきて一年近くにもなるのに、外にでてきてみんなと遊んだことがない。『変だなー』と思うと同時に、周りの人の評判になるほどの『賢い人』とはどんな女の人なのか、一度は見てみたかった。
しかし一方では『その女の人が身体が弱い』ことにも注目されていたのかも知れない。
その当時、はやり病として、結核が恐れられていた。それでも孝志にはだんだん興味がわいてきて、いろいろ想像してみたことがあった。きっとその人は孝志と違って、勉強が趣味で、人形のように色の白い綺麗な人なのだろう、と勝手な考えさえしてしまった。
それで其処の家の前を通るだけで『今日は会えるかな、今日は見ることができるかな、どうかな』と、怖いものでも見るかのように
会わないうちから気持ちが揺れ、ドキドキと心臓が鳴り出す事があった。もしその女の人が加代子さんだったとしたら、どう答えたらいいのか孝志はとても気になった。そんなこ
とはないと思うが、まず「この本に何が書いてあるか分からないまま受け取って、さて自分には読めるだろうか」と不安に悩まされながら考えこむ一日だった。
他の人に読んでもらって感想を言うのも不自然だろうし、どうしたものかと家に戻ってからも随分悩んだ。
父は新刊をぱらぱらめくってとてもご機嫌だ。孝志は自分の手の中にある文庫本の表題を見た。其処には「次郎物語」とあった。
仕方がないので少しだけ勇気を出して挑戦
してみた。しかし少し読むとなんだか飽きてきて、同じ事を何回も繰り返した。すると慣れとは怖いもので、孝志が思ったほど難しくもなく、かえって時間の過ぎるのも忘れて、のめり込んでしまった。あまり長い時間読んでいたので、父の方が驚いて「お前そんな本が好きだったのか」とのぞき込んできた。
孝志は読めない字は飛ばして読む癖があるが、この時だけは感動したり、納得したりし
て本当に面白いと思ったが、同時に加代子さんも同じ思いで読まれたのだと思ったとき、なぜか感動した。
一巻目を読み終えた頃には、『今度、何時会えるのかなー』と少し楽しみにさえなってきた。しかし、どう考えても、あの加代子さんが、孝志が気にかけていた女の子とはどうしても思えない。
ただ事実なのは、孝志が、読んでしまった本の続きを読みたいと思うほどに、良い本を貸してくれた加代子さんは、この近くにいるということである。 考えながら歩いているうちに、孝志はその家の前まで来ていた。
此処にいる、賢いとされている女の子が、
加代子さんであるとすれば、学校から帰ったら遊びに出かけないと聞いていたので、待っていても、なかなか会えそうにもない。孝志は兎に角、中に入ってみようと勇気を奮って中へ入ろうと入り口に立ったときに、「孝志ちゃん」という声がした。孝志は「アレー」
と思って周りを見たが誰もいない。するとその家の二階から「孝志ちゃん、こっちよ」と再び声が聞こえてきた。 「間違いない」。
孝志は、あれほど想像をたくましくしていたが、加代子さんがその人だと知ったときには、また今までとは違う、不思議な興奮を感じた。
表札には『林』と書いてあったが、その女の子は加代子さんだと、今はっきり分かった。
そう言うわけで『次郎物語』の第二巻も手に
入れたが、感想について聞かれたときには、上手に表現できないで、気に入ったところだけを部分的に話した。加代子さんはそんな孝志に「素敵だわ」と言って褒め、「わたしも同じところに感動したの」とも言った。
次郎物語の内容で段々盛り上がって、気楽に話せるようになった孝志は、『加代子さんとの過去のことは、余り気にしなくていいんだ』と思いを変えた。先生に褒めて貰うよりも今は加代子さんに努力を認めて貰う方が嬉しかった。孝志の人生観からすると、こんな
事は初めてのことだったので、少しは人生変わったのではないかと思うほどになった。
間違いなく、漫画以外の読み物で楽しみを持てたのは凄いことのように思えた。
学校の教科書を読んでいても、『間違えるのではないか』と思うだけで、内容の面白さに付いていけなかったのに、今の自分が不思議に思える。
加代子さんが賢い人だと知ってからは、付き合っている自分までもが賢く感じるのも不思議である。加代子さんが住んでいるのは、叔母さんのうちで、加代子さんのご両親は被
爆で亡くなられたことを知ったのは、それから二月ほど経ってからのことだった。
時々顔を出す孝志のことを叔母さんは知っておられたらしく、「いつでも自由に来てもいいですよ」と言われた。
調子に乗って再三出かけていったら、何度か、「今日は疲れているから」とか、「熱があるから」と断られてしまうこともあった。
孝志の姉は、世間的には賢いと言われていたが、学校の成績は普通だった。また姉に勉強を教えてもらうのも難しかった。
何故なら、押し付けがましくって後の気分がすっきりしない。その点、加代子さんは優しく教えてくれるし、『厳しいなぁ』と思ってもちっとも腹が立たなかった。
孝志はお祭りが大好きで、加代子さんに、「連れていって」と、ねだってみたが、「人が大勢いるところは疲れるから駄目なのよ」と断られた。
夏休みは、孝志にとって海が一番の楽しみだった。磯の香りをかぐだけで、飛び込みたくなるほど海水浴を楽しんでいた。兎に角、朝から晩までいても全く飽きないし、一夏に鼻の頭の皮が何度もむけて、火傷したみたいに真っ赤でツルツルになっても止めようとは思わないほど泳ぐのが好きだった。
この季節は収穫も多かったので、親も喜んで送り出してくれた。帰りにはアサリ貝がバ
ケツ一杯採れ、近所に配るほどだった。
当然の事ながら、加代子さんの家族の分は何時も別途に取り分けて持っていった。
加代子さんはアサリ貝が大好きで、新鮮なこともあってとても喜んでくれた。時には、巻き貝など、ゆでて一緒に食べることもあった。
夏の風物詩としてはセミがあげられる。
姿は見せなくとも、夏が来たことをいち早く教えてくれるのがセミで暑さの象徴のようにも言われることがある。ある時、加代子さん
はセミの標本を見ながら、「セミって沢山の種類があるのね」と言ってアブラゼミ、ヒグラシ、ツクツクボウシ等を指さし、「わたしセミが生きて動いているのを観察したことがないの」といった。孝志は早速、網と虫かごを準備して、近くの木々を見て回ることにした。加代子も今日は気分がいいらしくて、孝志の得意満面な表情と会話に付いていった。
数匹捕まえて持って帰る途中で、加代子が「ちょつと待つて」と孝志の足を止めた。
其処では、古い家の立て板に小さなセミが今にも脱皮しようとしているところだった。
二人は声も出さないで、暫く観察していた。セミと言えば茶褐色のイメージがあるが、今脱皮しようとしているセミは、薄緑色で、ま
るで違う生き物でも見ているかのようであった。二人はその様子を同じ姿勢で暫く見入っていたが、どちらからともなく「綺麗だったね」と言って、新しい生命の誕生に感動した。
当然のように虫かごのセミも、間もなくもとの場所に返しに行ったが、孝志は何故か、とても幸福だった。
季節は移り、冬も過ぎ春が近付いた頃、父が突然「お前はよくガンバつたので、褒美をあげる」という。その褒美とは『私学に進むように』と言うものであった。
「すべては加代子さんのお陰だ」と思った。
あんなに自分を馬鹿にした父が、高いお金を出して、「私学を受験しろ」と言うのである。
孝志も思っていた。次々と本に関心を持て
たときから、想像力や判断力が増して来たようには思っていた。読解力が付いてきたときから他の科目も理解できるようになったのは大きな収穫であった。実際成績も過去のそれ
とは随分違っていた。
孝志の部屋はお寺の裏の空き地に面していた。それで加代子さんはからかうように、「昨日風呂に行く時、随分遅かったけど孝志さんの部屋の明かりが見えたわ。勉強頑張っているのね」と言った。確かに孝志の部屋の向かいは、銭湯に行く道に通じていた。
初めは気にもしなかつたが二度、三度、「遅くまで頑張って風邪を引かないようにしなさいよ」と言われて、自分が注目されていることがとても嬉しかった。
以前は、孝志の方が加代子に注目し、気にかけていたのにとても不思議な気分になる。
それからは寝ていても時々電気をつけたままにして、格好を付けてしまう事もあった。
孝志は、愛とか恋とかというものとは全く
別問題として、加代子さんに近付くのが嬉しかった。
中学一年のスケッチ大会で入選した時には、賞状を最初に見せにいったくらいである。
中学二年に、愛鳥週間のポスターで大賞を貰ったときも、やはり最初に見せていた。
加代子も、孝志がどんな科目でも、やる気と自信をつけてきたのが嬉しくて、話題さえも知識に沿って増えていた。その頃、電話もまだ家に普及していなかったので、孝志は加代子さんの容態が悪いときには、叔母さんに頼まれて病院まて何度も走って行った。
こうして使い走りでも加代子の役に立てることは孝志には嬉しかった。しかし本人には病名は分かっているのだろうか?
よく熱を出し、貧血で倒れたりするとは聞いていたが、孝志もまだ子供なのでなんにもしてあげられない。助けになりたいがどうしようもないもどかしさを感じた。
天主堂の鐘に体当たり
その点、孝志の方は元気そのものだった。
同級生がキリスト教の子が多かったので、大浦天主堂の周りでよく遊んだ。ある時など信者の子供達が、教会の鐘の上からのびている大きな紐(縄)にぶら下がり、戯れているの
を見て、『面白そうだなぁ』と思った。
すると「お前も一度やって見ろ」と言われた。紐の先端をもってぶら下がり、鐘に向かって飛んで行き、その鐘をけ飛ばすことによって圧力を弱め、軽く下に飛び降りるというものだった。言われていることはよく分かったが、少しタイミングを計りたかったのに、誰かがそーれと押してしまった。
孝志はマ、マッテと言いたかったが、もうその時は足が踏み場から離れていた孝志は、兎に角、紐を手放さないことに懸命で、落ちないように頑張ったのだが、脚を鐘に向かって延ばすことをすっかり忘れてしまっていた。すると他の子供がするように『ぽーん』とけ
飛ばす音ではなく、体ごとぶっつかり『ドーン』という音を残して下に落ちてしまった。みんながビックリして、集まってきて「孝志って凄いな」と言ってるのが聞こえた。
孝志は、暫く立ち上がれないほど体に痛みを覚えたが、どちらにしても体当たりして「凄いなー」と褒められたのは悔しかった。
家に帰って暫く寝ていると、「ご飯の時間よ」と声をかけられたが、動くのが嫌で「今日は食べたくない」と言ったら、「食べることにはそつのない孝志が、食べたくないとはおかしい」と母が心配して二階まで上がってきて、熱があるのではと頭に手を当てた。
それからお腹の所に手をやって、「痛いの」と聞いた。孝志は「大丈夫」と答えたが、孝志の腕と、横っ腹、腰のところが真っ赤にはれているのを見て、「あんた何したの」と驚いて、理由を問いただされてしまった。
訳を聞いた家族は大笑い、せっせと氷水で
冷やして貰った。それでも病院に行くほどの
こともなくて済んだことを幸いに思った。
だいたい神聖であるはずの教会の鐘を、事もあろうにけ飛ばすこと事態がよくなかったのだと、嫌と言うほど反省させられた。
次に加代子に会った時、その時の話をしたら、「わたしだったら骨が折れていたかも」と大笑いした。加代子さんが少し元気が出てきたように思ったので、孝志は「海水に体をつけるだけでいろんなものを発見でき、珍しいものを探し出せるよ」と話した。「たとえば砂を一握り掴んだら、その中には何かめずらしいものがあって、それが一握り一握り違うものに遭遇するので、それを開くのが楽しみなんだ」と夢のような話をした。
加代子は孝志の話を聞いているうちに「私もそのネズミ島に一度行ってみたいわ」と話に乗ってきた。「行こうよ、僕は加代子さんを絶対退屈させない自信がある。行こう、行こう」。と孝志は大張り切りである。
加代子は「叔母さんに一度相談してみるわ」
と言って階下へ降りていった。暫くして叔母さんも一緒に行くことで話が決まった。
海水浴に挑戦
当日は晴天で、加代子の体調も問題なく出足から快調にでかけることができた。
潮干狩りは午後からしかできないので、まずは小さな島を一周して、岩場でイソギンチャク、うちかき、巻き貝など色々な生き物と加代子は遭遇した。砂浜では赤や、ピンク、緑と色とりどりの貝殻やかけらがあって、加代子は自分の気に入ったものをいくつか拾い集めた。その中からピンクの貝殻を一つだけ取り出して、「これとても綺麗でしょう」と桜貝を見つけたことに、いたく感動していた。
昼食を済ませて、休憩所で一休みしてから「一度海の中に入って足だけでも浸けてみよう」ということになって、水際まで行くと、加代子は、「わたしが、まったく泳げないこと知っててね、悪ふざけしちゃ駄目よ」と前
もって釘を刺された。しかした孝志は笑って言った。「此処に河童がついているから大丈夫」と。 加代子はそんな孝志の自信ありげな言葉に引かれて、砂場から膝の所まで海水の中に脚を滑らせ少しかがみ込んで「冷たーい」と大げさに声を上げた。そして体が砂から余り離れないようにして暫く浸かっていたが、時間がたつと自分の方から這うようにして泳いだ。孝志は『しめた』と思ったので水中めがねを貸してあげた。すると顔を海中につけて、珍しいものを次々と見つけては、歓声を上げ、小一時間も夢中になっている加代子の姿が其処にあった。
それから加代子はさも満足そうに、「孝志さん海って本当に素晴らしいわ、沢山の生き物が次々と見つかるの」と言った。それを聞いた孝志は「今度はもう少し深いところにおいでよ、其処にはもっと素晴らしい世界があるから」と誘った。加代子は、海中においてはすべて孝志を信頼して、胸元当たりまで海
の中に入っていった。
初めは「冷たい」とか「怖い」とか言っていたが、海水は真水と違って浮力があるので手を持って貰って脚を左右に動かしさえすれば簡単に浮いてしまう。一度浮いてしまえば少しぐらい海水を飲んでも手を離して泳げる、孝志はそう信じていたのでその通りにした。加代子はもう少し優しく教えてくれるものと期待していたが、二メーター、五メーターと距離を伸ばしながら一人で泳げるようになったときは、感動のあまりゴールに立っている孝志に抱きついてしまった。
加代子が距離が伸びる度に夢中になっていくので、孝志は自分のためにも水中メガネを取ってきて、加代子からは出来るだけ離れないようにしながらも、頭から深く潜って見せた。それから加代子を誘って魚の群を見せると、加代子は初めてとは思えないほど上手に息を止めて深い水中に挑戦した。当然息をつくために水面に上がってきたときには、其処には
浮き輪を準備して置いた。海水の中は浮力が働いて体が自由に動けるので、息が続く限り眼前にいるものを見て楽しめる。
加代子の興奮度は傍目に見て病人とは思えないほどだった。こうして三人は帰りに沢山の海の幸をお土産に、無事家にたどり着くことが出来た。 こうして孝志は『加代子さんに大海を自由に楽しんでもらいたい』と思っていたので、ほぼ願いがかなったのがとても嬉しかった。そうしないと食欲、体力ともついてこないので、孝志が横についていてでも早く元気な身体になって欲しいとも思っていた。
ところが、それは孝志の思い上がりであったことを後で嫌と言うほど思い知らされた。
何故なら加代子の心身ともに、こうしたことには無理があった。孝志は加代子の本当の病名を知らなかったのである。
それから一週間後、加代子は国立の療養所に入院することになった。
病名は肺浸潤(結核)で自宅療養で何とかなると信じ込んでいたのである。孝志は正直言って『加代子さんが結核だと知っていたらもう少し手加減したのに』と頭を抱え込んでしまった。せめて、お見舞いに行こうとしたが家族や周りの人が「今は行かない方がいい」と止めた。
孝志は色々な噂を背にしながら、加代子さんと初めてあった頃のことを思い出した。
孝志の家族にも難しい問題は山積みにされたときがあったが、幸いなことに家族八人、誰一人として欠けてはいない。その点、一人娘の加代子さんは幼くして両親を亡くし、近くには叔母さんしかいない。
しかも、今は結核という難しい病気にかかり、今までどれほどの幸せを得たのかと思うと可哀相になってしまう。将来どんな生活が待ち受けているかはほとんどの人が知らないとしても、健康であれば何とか喜びや感動も期待できるのに、加代子さんは今頃どんな気
持ちでいるのだろうと気に掛かる。
孝志から加代子への手紙
孝志は思った『こんな時こそ手紙を書いたらいいのだ』。誤字や文脈などで失敗しても加代子さんなら分かってくれるに違いない。
【拝啓、夏休みも終わろうとしている今、あの海にはクラゲがたくさん出て人間様を押しのけ、我が物顔で泳ぐ季節となりました。
その節は僕の勝手な思いで、大変疲れさせてすみませんでした。後から父や母にきついお灸を据えられましたが、僕も加代子さんの本当の病名を知っていたら、あんな無茶はさせなかったのにと後悔しています。
今は加代子さんの元気な姿を見て二人で発見したことや感動したことを話し合えたらどんなに楽しいかと考えております。でも、その前に加代子さんの状態がどんなものか、動
けるのか?、話せるのか?、面会できるのか
といろいろ心配です。もし本(翻訳物)など差し入れができるのでしたら言って下さい。僕が直接持って行ってよいのなら喜んで持っ
て行くつもりです。叔母さんに預ける方がいいのならそのことを伝えて下さい。
題名と作者を教えていただければすぐに探せると思います。今はまだお疲れでしたら返事はいりません。また時を置いて僕の方から手紙を書きます。 どうか近いうちに会える機会がもてますように】。
孝志
加代子の部屋は四人部屋で窓際だった。
病院の周りは自然が多くとても静かで静養には最善の場所と言うことが出来た。
孝志からの手紙は入院してから一週間目には届いた。
加代子は孝志からの手紙を読んでいて、『孝志が随分成長したんだ』と思った。
以前交換日記をしたくて、叔父さんが書いて
くれた文章のことや、親に見られたくないので、親展と表書きしたなどと話して、加代子を笑わせたことがあったけれど、この手紙を読む限り、孝志はもう何時までも子供ではないんだと気付かされた。
読み進むうちになんと思いやりのある言葉使いや責任感のある力強い言葉なんだろうと感じた。そして孝志との出会いを思い起こしては良かったと思う。まるで自分の弟のようで初めから姉弟であったかのように錯覚する。
今は夜中に寝汗をかき、熱が一定でないことに不安を覚えるが、きっと又、あの青々とした大海原で孝志さんと一緒に泳ぎ、あの時のようになんの抵抗もなく戯れてみたいとさえ思うのであった。孝志さんは責任を感じてくれているようだが加代子は水の上に浮かんだ自分の体の感触を、今も驚きと感動と達成感で独りでにうれしさがこみ上げてくる。
船の出入りの激しい長崎港の近くで育ったの
だから、磯の香りには慣れていたが、海辺を
歩くと行っても長崎の海岸沿いだけだつたので、岩の上を裸足で歩いたときの感触、砂に埋もれる柔らかい海水とのふれあい、すべては初めての経験だった。
加代子は大きく事業を延ばしていた父と一緒に、広い部屋や沢山の玩具を与えて貰っていたが、海には一度も連れていって貰ったことがなかった。大抵は自宅の庭や、小さな池で、気の合った友達を呼んで遊んでいた。
ある意味で「井の中の蛙」的存在だった。
大事なときにはいつも母が横にいてくれたが他のことは叔母さん任せにしていた。
学校に行きだしてからは普通に何でも出来たが、時代的背景からか海にだけは、連れて行ってもらえなかったのである。
原子爆弾が投下されたときには、叔母さんの所に預けられていたが、その後、両親が亡くなったことを知らされても実感は沸かず、
遺骨を渡されても、独りぼっちになったとの意味がまだ良く理解できなかった。
周囲の人が可愛そうにと涙を流すので加代子も、『そうなんだ』と思って静かにしていたが、『二度と会うことが出来ない』と言う言葉に実感がわかない。両親が死んだと聞いたときには、ただ寂しさだけで、今後のことなど子供の加代子では全く考えられないし、「独りぼっちになっちゃつて」と同情されても『側には叔母さんがいるから大丈夫』と思うしかない。
どうすればいいのかは叔母さんが考えてくれるとの甘えだけで自分を支えたように思う。
不安定な時代だったので、父は家族の一人、一人に必要な備えをして、加代子の養育費も十分な手続きがとられていた事が幸いした。
姉弟がいないことについてはとても寂しかった。あの時、お多福豆を売っていたのは、友達の親に付いていって、友達がする事を見ているうちに興味を抱いて、友達が他の用事
を済ませるまで、代わって店番をしていたのだった。あの時、孝志がオドオドするので何
か変だなと思ったのが今に至っている。
だから孝志と知り合う機会は、あの一瞬がなければ存在しなかったのである。
考えてみれば加代子も孝志と同様、改めて異性の人に個人的な手紙を出したことがなかった。どうしたものかと考えたあげく感謝の手紙を書くことにした。
【お手紙有り難うございます。
海水浴場ではクラゲがたくさん見られるようですが、それって夏休みはもう終わりですと警告しているのでしょうか?。いずれにしても加代子は孝志さんの手荒い指導(冗談)の元に少しだけ泳げるようになりました。
水中メガネってとっても便利、海水の中でも目を開けていても全く平気、時々魚にさわれ
そうになったときなどとても興奮してしまい
ました。わたしが入院したことを心配して下
さっているようですが、孝志さんには全く責任はありません。何故なら今でも退院させて
貰ったらもっともっと泳いでみたいと思っているぐらいです。もし溺れかけたら、あの真っ黒に日焼けした、たくましい孝志さんが、すぐに横にいて助けてくれると思えば、何時までも日が暮れるまでだって泳げそうにさえ感じます・・・。
[加代子は此処まで書いてペンを置いた。そして自分には肉親はもういないのだと、とうに諦めていたのに孝志さんのことを自分の実の弟のように思えてきて愛しくさえ思えてきた、そして涙が何故か流れて止まらなくなった そして加代子は再びペンを取ると再び次のように書いた]
しかし残念ながら当分は入院の必要があり、理想は理想として大切にしておきます。
どちらにしても、わたしの病気はいずれ入院することになっていました。だからあんな乱暴で自由な楽しい時間を一度でも、もてたこ
とを生涯忘れることはないと思います。
体調は今は落ちついていますので、少しでも
調子を整えて又お話ししましょう。次のことを勇気を持って書きます】
わたしの可愛い弟孝志さんへ
加代子
孝志は手紙を読んで少し安堵した。
孝志は自分では正しいことをしていると思って親切にすることは出来ても、結果が付いてこなかったり、逆の目が出たりしてと悩むことがよくあるからである。
しかし今度のことは、加代子さんを結果的には疲れさせたとしても、文字通りに取れば過去に経験したことのない夢の世界に案内したことになる。思い返してみれば『本当に楽しかったなー』と孝志も思う。加代子さんがあんなに大きな声を上げて笑ったり、夢中になる姿を孝志は始めてみたからである。
孝志の姉も一般的に美しい方だと周りの人は言うが、孝志は姉が派手好きで少しの化粧をするのを見ていてあまり好きではなかった。
しかし加代子さんが化粧したのは一度も見たことないし、何処で身につけられたのか品良く見えてならないのである。実の姉弟は互いに開けっぴろげなところがあるが、年頃になると自然に秘密主義者になって行くのが分かるが、それでも姉と加代子さんでは孝志にとってあまりにも違いすぎる存在だと思う。姉は行動派なので男性にもてるが、加代子さんはあんなに美しいのに自分からは何ら行動しようとせず、時の流れにのって静かに生活している。
加代子さんが孝志のことを可愛い弟と書いてくれたことには本当に感動した。実の姉に
は悪いが、孝志には理想の姉が誕生したのである。 早速孝志は加代子さんへ返事を書いた。
【愛しきお姉さまへ。今日は僕にとってとても幸福な日になりました。何故なら僕が理想としていた加代子さんから弟として認知して
貰ったからです。僕は今絵画に凝っているん
ですが、先生も将来は美術大学に推薦したいといってくださいました。是非今度お会いしたときは加代子さんの肖像画を描かせて下さい(少し時間が掛かるので体調が好いとき)。
月日の経つのも早いものでが加代子お姉さん
は僕がいくつになったと思いますか。
先日、入学試験がありましたが、僕の場合は中学から引き続いてなので形だけの受験となりました。ですから答えは高校生になったと言うことです。加代子お姉さんの許可さえ頂いたら、新入生が詰め襟でお見舞いに行きたいと思いますが如何でしょうか、ご返事お待ちしています。
面会時間など分かれば時間はこちらで合わせます。学校の帰りでしたら思案橋からバスに乗ってそのまま行けるので楽です】。
追伸。ぼくを紹介するときは「弟です」と言ってください。
親愛なる加代子お姉さまへ
孝志
加代子は表を散歩していた。
桜の花びらが舞い降りて新芽の葉桜が順番待ちしているように思える。加代子は此処数日、とても気分が良かった。担当医からも「随分顔色が良くなってきた」と言われ、自分の命にも新芽が差さないかなーと一縷の望みかけながら広場を一回りしていた。先日、孝志さんからの手紙の中で僕を紹介するときには「弟です」と言って下さいとあったが 加代子はつい思い出し笑いをしてしまった。
何故なら、加代子も背丈は普通以上だが、聞くところによると加代子を七㌢も上回る男性が、詰め襟を着ているからと言っても「弟です」とは普通に通用しないのではないかと思ったからである。それでも今の体調だったら担当医も面会を許可してくれるに違いないし、新入生さんの姿も見てみたいと思った。
【春は一年中でもつとも多くの生き物が出そ
ろうときでしょうか、沢山の植物、動物、そ
して色鮮やかな花々、とても地上が賑わうときのように思います。長崎の旗揚げも有名ですが、孝志さんも参加されましたか。孝志さんの元気の良さではきっと一番乗りも可能だったかも知れませんね。
ところで先日の手紙の中で、孝志さんがわたしの思いを遂げて、実の弟として紹介させて下さるとは本当ですか。信じてもよいのでしょうか?。こちらに入院してから、ほぼ九ヶ月を過ぎましたが叔母さんは定期的に、わたしの様子を見に来て下さいます。
孝志さんの手紙の内容によれば、病院に見舞いに行けるでしょうかとの質問ですが、担当医の答えはどうぞと言うことになります。
しかし、許可が出てもほとんどの方は結核という病気に対する抵抗があってか、見舞客はほとんど来られません。多分孝志さんのご家族もその事については相談するまでもなく反対されると思いますので、此処暫く様子を見
て返事をしたいと思います。事実、此処数日
のうちに何人かの人が手術室に入られましたし、亡くなられた方もおられます。どうぞいつものお気遣いには感謝していますが、ご自身を大事にして下さい。
話は変わりますが、それにしてもわたしと、孝志さんは短い人生しか過ごしていませんが
とても素敵な出会いをしたと心から感謝しています。ついこの間も孝志さんの詰め襟と、新入生姿を見せて貰いたいと本気で思いましたが、すべては世の流れ、自然の流れに沿って生きるのも懸命な道かと考えます。
将来画家の道を志しておられるようですがそれは素敵なことだと思います。日本には四季があって自然の美しさには事欠かない素晴らしい風土だと思います。いずれ世界中に目を向けて行かれるなら、人間の歴史のすばらしさや生き甲斐なども今とは違った形で見いだされるでしょう。その時は、わたしにも知り得た知識を少し分けて下さいね。
可愛い弟孝志さんへ
加代子
孝志の勇気ある言動と見舞い
孝志は手紙を受け取ったその日に加代子さんが入院している病院に電話をしていた。
面会時間の確認のためである。そして翌日学校からの帰りに、加代子さんに会うためにその病院を訪ねた。孝志は、この件については誰にも相談するつもりはもう無かった。
病院の受付では帳面に加代子の弟と書いた。受付の人は病室の方に連絡を入れ、加代子に「弟さんが面会にきている」ことを告げた。
加代子は一瞬自分の耳を疑ったが、『もしかして』と思ったとたん、何故か反射的に外出着に着替えて薄く口紅を引いた。。
暫くすると加代子が看護婦さんに伴われて現れた。まだ遠くにいるのに互いに涙をこぼしてしまった。孝志の手から数冊の本と果物が渡されたとき、加代子は「来て下さったのね」。と感謝を込めて言った。
それからはしばらくの間無言でいたが受付
の人が「折角弟さんが来て下さったのだからその辺を案内してきたら」と気を利かせて下さった。 加代子は孝志の学生服よりも、その凛々しい姿に目を奪われた。わずかな期間に人はこんなにも成長するものだと思った。
しかし、孝志の方は孝志の方で、薄化粧の加代子さんを見て美しいと言うよりも目映く見えた。加代子は「少し歩きましょう」と言って森林の方へ向かうとすぐに「ありがとう」と言った。そして周りの目を気にしながらも孝志の学生服の袖を指で摘んで歩いた。
孝志はどうしたものかと戸惑っていると、加代子が言った。「本当に面会帳に弟と書いて下さったのね」。孝志がまだ緊張しているので加代子は「ご家族反対されたでしょう」と尋ねた。
孝志はそれには答えないで、「最近気分がいいと書いてあったけど順調に行けばいいね」と言った。国立病院だけに周りの環境がよく
他人が騒ぐほど怖い病気が蔓延しているとは
考えられない。孝志は家に戻ってもなんにも言わなかった。
それから孝志は何度も足を運び病院の人とも親しくなった。ある時病室の他の三人の人が「紹介しなさいよ」と孝志を病室に招き入れてくれた。さすがは女性の部屋である清潔でいろとりどりの人形や、折り鶴などが飾ってあり、華やかで遊び心もあり、それでいて落ち着けるし、好感がもてた。椅子は加代子のお客さん用をあてがわれた。
窓際を覗いていると加代子さんが朝な夕なにこの自然を通して、周りの世界を見、楽しんでいるのが分かった。
お茶が入り、いろんなお菓子が用意されたが、質問も多くなされた。「この部屋何人かの方が見舞いに来られたことはあったけれど、詰め襟の学生さんは初めてよね。加代子さん幾つでした?」。「十八です」。「いやー。孝志さんって男前だし、二人並んだら姉弟では
なくって恋人同士に見えるわ。私もこんな弟
が欲しいわ」とからかわれてしまつた。
当初は会えることがとても楽しみだったが時間が経つのは思ったより早く、時計の針が『もう帰る時間です』と音を鳴らした。
加代子さんは「バス停の近くまで送って行くわ」と言われたが孝志は断った。
次回来たときに看護婦さんや、受付の人のイメージを良くしておきたかったからである。
時々父のカメラを拝借して写真を撮り、机の中に隠していたが、父はそれを知らないわけではなかつた。父が心配していたのは、孝志が風呂上がりに貧血で倒れたことや、以前ほど部活に熱心でなくなったことだった。
孝志は至って元気で病院なんか掛かったことがない子供だったが、父は知人の紹介で孝志に健康診断を受けさせた。
心配された結核には問題なかったが、「白血球の数値が少し気になるが暫く様子を見てみましょう」と病院の先生は意味深なことを
言って別れた。父は「孝志は長男なんだから、
いずれ自分の事業を次いでもらわんならん」
と少し神経質な面もちで病院を出た。
八坂神社での出来事
夏が近づくと八坂神社のお祭りである。
孝志と加代子はこの日に病院を抜け出し、祭りに参加することにした。孝志は祭りは好きだったが、おみくじについてはよい結果が出ないのでいやだった。加代子はその事を聞いて、「みててご覧、今度は二人で引けばきっと素晴らしいことが書いてあるかも知れないわ」と言って二人で一枚買った。しかし、加代子は中を開けるのが怖かった。そんなとき、孝志は加代子に妙なことを言った。
「あそこを見て、木々の枝にもたくさんおみくじがあるのに、何で新しいのが良いと決まっているのか分からない。僕は何時もあの木の枝にくくってあるのを一枚拝借するんだ」と言った。加代子は孝志がそんなことをまじ
めな顔をしていったので、「馬鹿ね」と背中
を叩いて大笑いした。
「あそこにくくってあるのは、良くないくじを引いた人が、次には良いことがありますようにとの願いを込めて、くじをくくりつけて帰るのに、孝志さんたら、わざわざその中から一枚引くなんて良いはず無いわ」と又笑い出す。孝志は謎が解けて自分もおかしかったが、その事を加代子さんだから教えてくれたんだと感謝した。
さて、その事は置いといて、二人が引いたおみくじは吉と書いてあった。当然、内容は悪くはなかったが、間違いなく当たっていたのは『待ち人来たる』であった。
ほおずき市がはやっていて、お賽銭箱の前は行列が出来ていた。『加代子さんも疲れているようだから、そろそろ引き上げよう』と思っていたら、賽銭箱の中でも他のほど人気の無い賽銭箱があった。人もまばらなので、小銭の一枚だけでもと思って投げ入れると、
それを見ていた加代子さんが「お賽銭入れた
の」と聞いたので、「うん、なんの神様か分からないがあそこに入れといた」と言ったら、加代子さんは怪訝な顔をして、「あそこのお札をよく見てきなさい」と命令口調で言った。なんのことかと孝志も自分のしたことが気になって看板をよく見ると、其処には「安産の神様」とあった。孝志は戻って来て加代子さんの顔を見ると、今度は笑いながら「誰が産むの」と意地悪な質問をされた。
孝志は自らの天然ぼけに嫌気が差した。
しかし加代子さんからすれば、そんなところが妙に憎めない可愛い弟と思った。帰りにはお姉さんのおごりで喫茶店によってお茶を飲むことにした。ウエイトレスが来たので早速加代子さんは「コーヒー」と言った。そして「孝志さんは」と聞いた。孝志はまだ学生なのでこんな場所は慣れていなかったので、コーヒーと言えば好かったのに、『ご馳走になるのに高いのは申し訳ない』と思って一番安
そうな紅茶を注文することにした。
それでつい孝志はウエイトレスに向かって「僕は『ベニチャ』」と言ってしまった。
ウエイトレスはとぼけていっているのだと思い、すぐに理解してくれたが、加代子さんが「孝志さんはわざとそんな事いうの」と聞いたので、又何か失敗したなと慌てて、「今僕何を言いました」と聞き返すと、「今孝志さん紅茶のことを「ベニチャ」と言いませんでした? こんなところで女性をからかっては駄目よ」と真顔で怒られた。
ところが孝志は緊張してか、本当に読めなかったのである。そして聞いて初めてそうだと気付き「ベニチャ」じゃないと訂正した。
加代子は真実を知って呆れてしまい、運ばれてきた紅茶を孝志に向けて「可愛い弟さん、「ベニチャ」が来ましたよ」と笑って見せた。
八坂人社から病院までは一直線、遅くなったのでバス停まで送ることにした。
孝志が少し遅くなって帰っても父は以前の
ように怒ることはなかった、なにせネックに
なっていた勉強のことは今や、他の人に自慢できるようになっていたからである。
孝志は自分の部屋にはいるとすぐに加代子さんへの手紙を書くことにした。
【朝起きたら目の前で魚が空を飛んでいます。海の中はもう飽きたと、子供を連れて天空高く気分が良さそうに泳いでます。僕は学生な
ので、酒もタバコも呑んだり吸ったりしていませんがこれが夜明けの挨拶になりました。天然ぼけの頼りない弟が、先日の失敗からおかしな夢を見るようになりました。
今更ながら、お祭り事が苦手な加代子お姉さんにお粗末な場面をご披露して、どうしたものかと布団から出られません。今朝はとても悩んでいる可哀相な弟からご挨拶申し上げます。
加代子お姉さんに会ってからは何をするにも自信がつき、今は過去の自分ではないと信じ
きっていたのに、この前はすることなす事、
馬鹿ばかり、加代子お姉さんの弟だとよく言
えたなーと今更ながら恥じています。努力はしてきたつもりでしたが、あまりの世間知らずで、もの知らずの自分を恥じています。
それはそれとして、お祭りの後の疲れは出ませんでしたか、遅くなったのでお叱りを受けたりしませんでしたか、僕の方は此処暫く立ち上がれないほど「へこん」でいます。
矢張り小さいときに劣等感を抱き続けた日々が長かったので、今も時々自信をなくすことがあります。加代子お姉さんの能力に少しでも近付けばいいなーと思っていたら、この前、 本当に弟にして下さるとの認知を頂いたのに?、血筋は仕方がないようです。
しかし学校の勉強の方は順調です。加代子お姉さんに教えていただいたように、辞書は手から離したことがありません。ただそのため一つの失敗をしてしまったことがあります。実は、この辞書に加代子お姉さんの写真を挟
んでいたら友達に見つかって、教室にいた生
徒の中を一周して僕の手に戻って来るという、ハプニングがありました。評判については僕が言うまでもなく、可愛い、綺麗、目鼻立ちが好い等々、勝手なことを言い、友達にしたい女性の第一位という事になりました。
今度同級生に合ったら声をかけられるかも知れません。そうそう、その中には先輩も、先生も居たので、どんな関係かとしつこく聞かれました。それで「僕の姉です」と言おうとしたが、もし実の姉と勘違いされたら姉が可哀相なので止めました。今週はこんな具合でまたまた加代子お姉さんに迷惑かけそうです。
また、気分のいい時を見計らってお手紙下さい。それから僕はまだ弟の立場で居てよいでしょうか。その件もよろしくお願いします】。 親愛なる加代子お姉さんへ
愚かなる弟孝志
加代子は同室の女性が年上のせいか、お化
粧についていろいろ教えられ、不思議な気分
を味わうことがあった。自分から進んでそう
しょうとは思わないものの、化粧は女性のたしなみであることを認識するようになった。皆さん病気なのでと思っていたが、薄化粧は必要最低の条件のように考えが変わった。
なぜなら、女性同士でも朝起きて青白い顔を見るよりも、少し紅色の暖かみのある顔を見る方が気分がいいし、見られる方も心地がよいことが分かった。
そこに看護婦さんが入ってこられ、「皆さん今朝はとても美しくなられて、どうされましたか」と挨拶された。そして加代子の方に近付いて「お待ちかねの弟さんからのお手紙ですよ」と孝志からの手紙を手渡した。渡されて、加代子は何となく顔が火照り他の人より赤くなってしまった。
横の女の人がそれに気付いて、「私もあんな可愛い弟が欲しいなー」と言うと、もう一人が、「本当ねえ。行儀もいいし、素直そうだ
し、今度何頃来られるの」と加代子に尋ねた。
加代子も困ってしまって「さあー」と言いながら封を切った。そして孝志が自分の失敗を必要以上に気にかけていることが分かり、注意しない方が良かったのかもと考えた。
加代子は再びあの時のことをなぞるように思
い出してみたが、やっぱり可笑しくて笑わず
にはおられない。つい加代子が声を出して笑ったのでみんなが、「あら、とても楽しそうね、私にも少し教えてよ」と冷やかした。
加代子は孝志がおみくじを買わなかったのは、早くから貧しさを経験して、只で引けるおみくじを木の枝からとつたのだと分かった。お賽銭にしても、混雑の中から早く加代子を誘い出すためにしたことで、お礼のつもりで気持ちだけ賽銭を置いてきたかっただけだと考えた。
こうして改めて孝志のしたことを考えると、単純ではあっても優しさと思いやりが重なって見えてくる。
しかし、写真のことはいけない。辞書の中に
挟んで持ち歩いている人のことなど聞いたことがない。どうせ持ってくれるのなら定期入れとか、まずは落とすはずのないところに入れるべきである。事もあろうに男子だけの学校の教室など、とんでもないことをと腹が立ってきた。
ところで孝志は、加代子のどんな写真を持っていたのか、それさえ気になった。
加代子にとって唯一の救いは、友達にしたい女性たちのなかでナンバーワンと書かれていたことである。
加代子は思った、自分は孝志を弟として欲しいナンバーワンにはしたが、正直に言って孝志が成長し写真を持ち歩いていることから、『出来れば恋人にして欲しい』との、ほのかな思いもないではなかった。
何故なら加代子の枕の下にも孝志の写真が隠されていて、それだけでとても寝心地がよかつたからである。しかし、加代子は自分の
立場はわきまえているつもりである。
病人の自分に好意を寄せてくれるだけで、孝志の行動は十分であり、好きだと言うだけで勝手な思いや、行動は慎まなければと加代子は自分の感情に溺れないように注意した。
【朝夕の風が少し涼しく感じるようになりま
した。昨夜は中秋の満月でしたね。雲が澄んでいたのでとても綺麗でしたが、孝志さんは
見られましたか。この病院の周りにはススキが沢山生えていて、ススキ越しに見る月はとても素敵でした。人が月の美しさに関心を持つのは遠い昔から変わらないんでしょうね。
機会があれば今度はぜひ孝志さんと一緒に見られたらいいなと思いました。
でも、孝志さんと一緒に行動すると、この前みたいに何かハプニングが起こりそうで、楽しみでもあると同時に、少し怖い気もします。
特に写真の件、わたし本当に怒っています。孝志さんが通っておられる学校は確かキリス
ト教だったでしょう。『学校に女人禁止』な
んて書かれていなかったでしょうね?。
ところで孝志さんも聖書を持っておれるのでしょうか。わたしは一度だけ、ヨハネの福音書というのを読んでみたことがありますが、良く理解できませんでした。薄い本でしたから聖書の一部分を抜粋された物と思いますが、
孝志さんが理解された部分を一つだけでも教えてくださったら嬉しく思います。
それが良いものだったら写真のことは許してあげます。『二度目は誰にも見せてはいけませんよ』。これは約束にして下さい。
病気の方ですが、この前レントゲン写真を撮りましたら、随分良くなってきていると言われ、食事の方も以前からすると随分すすむようになりました。これから季候も良くなり、食欲が進み過ぎて、太らないようにと周りの人と冗談を言ったりもしています。
今日も外が明るいので、きっと綺麗なお月さんが待っていると思います。これから少し
歩いてから寝ることにします。】
大切な弟、孝志さんへ
加代子
孝志は困惑していた。同級生の数人が神学生で、ラテン語を勉強している事は知っているが、聖書を個人的に読んでいるところは見
たことがない。中学生の時は宗教の時間があったが、ほとんど理解していないように思う。
それでも孝志は、何処に書かれていたかは覚えていないが、一つ好きな聖句があった。
その言葉が何処に書かれているのか、友人に尋ねて探し出した。
聖書の最後にある、ヨハネの黙示録第二一章四節の、その聖句を書き送ることにした。
【先日の名月、偶然にも僕も見ていました。あんなに美しい月から僕のためにかぐや姫を使わして友達にしてくれたら、神様の存在を信じて深く感謝するだろうとも考えました。
それから暫く考えて、僕には、もう神様が加
代子お姉さんを贈って下さったのではないかと思ったとき、何か不思議な思い、幸福な思いがしてとても嬉しくなりました。
では、僕の好きな聖句を書いて送ります。
『神が、人の目から涙を全くぬぐいとってくださる。もはや死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである』。 ヨハネ黙示録二一章四節
僕たちは、戦争や食糧不足や病気など様々な苦しみにあったり、命を無くしたりした人々(加代子お姉さんのご両親も含めて)を大勢見てきましたが、いつの日か、それらの悲しみ全てから解放されるということを、神様が約束しておられるということのようです。
人間の歴史を紐どけば日本に限らず、世界中が国盗り合戦をしてきましたが、僕たちが経験してきたように、戦争というものは、勝った方にも、負けた方にも相当の犠牲をもたらします。それは終戦になっても続きます。
そのような苦しみが、人間の力でなく神様
の力によって無くなり、二度と戦争がない時代が来るとの約束のようです。
そうなれば、食糧不足も、病気も確かになくなる、当然、加代子お姉さんも元気になれるという希望が持てますね。
僕の知識ではこれぐらいしか答えられませんが、僕の願いは、加代子お姉さんが一日も早く健康を取り戻す事です。
あとは、僕が調べた聖句が加代子お姉さんに気に入っていただけるかどうかですが、いずれにしても、僕が加代子お姉さんに聖書の言葉の一つでも説明でき、親密な関係を持てるようにして下さったことを心から感謝しています。】
親愛なる優しい加代子お姉さんへ
孝志
病院の消灯は比較的早いので、朝も早起きの人が多い。中にはトランジスター・ラジオ
など枕元に置いて、イヤホンで深夜の番組を
聴いている人もいる。ただし病院での生活は同じようなことの繰り返しで、退屈なものといえるかも知れない。
そんな中にあって加代子は自分のことを幸せ者だとツクヅク思った。一発の爆弾がもたらした悲劇のなかで、孝志との出会いほど不思議なことはなかった。偶然にしてはあまりにも良く出来過ぎているとさえ思う。
加代子は、孝志からの手紙を見て、自分は両親を亡くして将来がとても不安だったこの頃、孝志がいうように気持的には親密な関係を持てるようになったことは確かだった。
孝志は、神様が加代子に会わせてくれたのではないかと書いていたが。そうではなく今では、神様がわたしを勇気ずけるために、孝志さんに会わせて下さったように思う。
手紙の内容からすると、孝志は聖書のことは余り知らないようだが、とても素晴らしい聖句の一文を覚えていて、加代子のために、
再び調べ直して知らせてくれた行為には、孝
志の真面目な人間性を感じて、感謝と共に愛しささえ感じないではいられなかった。
人間って誠実に接するとき、答えはこだまのように自然にかえり、美しいものを響かせ合うようにさえ感じられる。しかし孝志は、「学校を卒業したら、東京の美術大学に行きたい」と言っていたので、別れの日もそんなに遠くないことも感じる。
加代子の気持ちは素直に「行ってらっしゃい」といえるのだろうか。それから先のことは、もう考えたくなくなったが、可能なら自分が頑張って同じ大学に行ければどんなによいかとさえも思うが、今の状態では到底不可能であることは確かだった。
孝志と知り合ってから十年ほどになるが、二人の間にはあまりにも多くの思い出が浮き沈みして冷静ではいられない時がある。
二人はいよいよ大人の仲間入りをする寸前にいることを意識させられる。
『孝志さんは間もなく、良い時代が来るこ
とを聖書から紐どいて下さったが、それが確かなものとして確信できるようになったらどんなによいかしら』と祈る思いさえしてくる。
加代子は孝志へ、お礼の手紙を書いた。
【菊の香り芳しく、いよいよ秋を感じるようになりました。散歩していると柿の実が熟す前に風に撃たれて、まだ青いまま足下に転
がっています。
先日は無理なお願いをしてすみませんでした。
聖句を探すのに苦労されたようですね。
さすがは孝志さん、素晴らしい言葉を覚えておられたものだと感心させられました。
どの様な聖典にも良い言葉がたくさんあると思いますが、意味を理解するまでが大変なように感じます。孝志さんの説明は明解で、簡潔で分かりやすかったので、百点を上げたいと思います。
ところで、孝志さん、来年は受験ですが、
準備は万端ですか。うまくいったらいいなー
と思いながらも、これで暫く、いいえ、ずーっと会えなくのではないかと少し寂しさを感じています。
人は成長して色々な経験をしますが、実際には経験などしない方がいいこともあるように思います。短い命をいっぱいに膨らませて咲き誇るのもよいのかも知れません。
わたしも孝志さんとお会いしてから、沢山の
知らなかったことを短い期間で知り、今にもはじけそうになっています。
まもなく、紅葉も美しさを増す頃になりますので、よろしかったら、ご一緒に紅葉狩りにでも出かけませんか?
孝志さんの努力に感謝し、またお会いできることを楽しみにしています。】
愛しき弟、孝志さんへ
しかし孝志の方もその後、体調を崩していた。風邪をこじらせて、『一週間も寝てたら
治る』と軽く考えていたのが間違いで、高熱
が続きダウンしてしまった。医者の話では肺炎だという。
担当医は以前のデータから白血球の数値に拘り、『当分時間をかけてよく調べさせて欲しい』と、暫く入院することを勧めた。
普段健康で入院なんかしたことのない孝志が、こんな形で寝込んでしまうのは腑に落ちないと、家族の者も困惑してしまった。
家族の者が代わり代わるに見舞いに来てくれたが、妹の登喜子は変わったものを持ってきてくれた。友達の母親が「登喜子ちゃんのお兄ちゃんにあげる」と言って持たせたらしい。それは、ザラ半紙のような粗末な紙で出来た小さな小冊子だった。
表紙には『見よ!』と書かれていた。
孝志は、パラパラとめくってみたが聖書のことが書いてあるようだった。それで登喜子に感謝して「これ加代子姉さんに贈って貰えないか」と頼むと「いいわよ」と簡単に引き受
けてくれた。考えてみると登喜子は久留米に
行ったときの子供で今は中学一年生である。
加代子は驚いた。孝志からの返事がなかったので今度は忙しいのかなと思っていたら、妹の登喜子から手紙が届いたからである。
封を切ってみると。
【加代子お姉さん今日は。お体の方は良くなっていますか。みんなで心配しています。わたしの家ではお兄ちゃんが肺炎で入院しま
したので少し大変です。
この冊子は、お兄ちゃんからのプレゼント
です受け取って下さい。】
登喜子
加代子危篤状態に陥る
加代子はこの時初めて孝志の事情が分かった。孝志は子供の時から体が丈夫で入院したことなど一度もないはずである。よほど大変だったに違いない。贈られてきた冊子には孝志が聖書から調べてくれたようなことが書いてあった。加代子は孝志の厚意には感謝する
ものの、孝志の病気のことを考えると一度お
見舞いに行きたくなった。
しかし、正月には体調のいい人だけに外出許可が出るとは聞いていたが、病人が病人の見舞いに行くと言ったら許可は出ないように思う。叔母さんが来て下さったので、孝志の様子を聞いたところ、今は家族以外は面会謝絶になっているという。
加代子は悩んだ。『今は手紙を出しても読
んでは貰えないと思うし、どうして孝志さん
のような善良な人が、そんなひどい病気に掛
かるのか』と考えた。『わたしを騙してお多福豆を手にした時も、わたしは直ぐ許したわ。
時々小さな間違いをしたことは聞いていたが、本当に神様がおられるのならこんな時に助けてやって欲しい。ましてや、神様のこともわたしに教えて下さったのに』。そう考えていくと何故か涙が次から次に流れてきて止まらなくなった。そして最後に、『わたしから父
や母を取り上げて、孝志まで取り上げないで
下さい。わたしの命はそんなに永いようには
思えないのに、そんなに早くから独りぼっちにさせないで下さい』と、心の中で祈る思いで叫んでいた。
いつしか、加代子も気のゆるみからか、寝不足のためか、いつもの軽い熱が出たと思ったら、咳き込むようになった。日毎に咳がきつくなるので、周りの人が心配し、担当医も頻繁に見回ってくれた。
担当医はこのまま状態が良ければ、体力が
付いたところで手術をして助けたいと考えて
いたが、若い女性の体にメスを入れることを躊躇していた。ましては肋骨を奪われた姿は担当医としては辛いものがあった。しかし何故こんなに早く体調が悪化したのかと院長も共に心を悩ませていた。
風が雨を伴って窓を激しく撃ちならしてい
る。木々がきしみながら大きく揺れ、風の強さを教えてくれる。加代子は夢を見ていた。
被爆して焼け野原に一人居ると、汚い服を着た孝志が、白い歯を見せながら近付いてきて「早く行こう」と加代子の手を取ると一緒に走り出した。「何処に行くの」と聞いたら、
孝志が「戦争のないところだよ」と言った。孝志は笑いながら、「今から行くんだ。ほら向こうの方に光が見えるだろう、約束は本当だったんだ」と言い、「平和の国が待っているから」と加代子をせき立てた。
加代子は言った。「わたしは今熱があるのだからそんなに早く歩けないわ」。孝志は振り返って、「そう加代子姉さんは病気だったんだ、僕には力があるから負ぶって行くよ」と
言って腰を低くし、さあ早くと加代子を背に乗せ歩き出した。 加代子は言った「孝志さんて優しいのね。わたしこのまま少し眠ってもいい?」「しっかり捕まってたらいいよ、加代子さんとても軽いから大丈夫だよ。安心して眠っていいよ」。加代子はひとしきり咳をして疲れていたのでとても気分がよかった。
「このまま高志さんと一緒に行けるのね」と言ってそのまま深い眠りに落ちた、すると後ろの方から大丈夫、大丈夫という声が次から次と聞こえてきた加代子は孝志の疲れた手が
自分のお尻の下で手を持ち変える時、我に返って孝志さんもういいはここからは自分で歩けるからと孝志の首から手を離そうとした孝志はううんとうなづいて、そおーっと加代子を手頃な場所に降ろした。加代子が目を覚ますと周りには沢山の人がいて加代子の体を揺すっていた。加代子は危篤状態にあったことを後から知らされた。見ると胸元にいくらかの血が飛び跳ねて喀血したことを教えていた。
それから数日後。孝志の方は普段から体力があったので、病状も、峠を越えてからは快
方に向かうのには時間は掛からなかった。
加代子は現実よりも夢の方に未練があり今見た夢を思い出そうと再び目を閉じ断片的に思い出してはとても幸福な思いがした。
一方孝志の方は熱と間接の強烈な痛みに随
分永く悩まされていた。主治医が心配していた白血球も順調に正常値に戻って、医者も家族も安堵したとき。
孝志は、カレンダーを見て、自分が入院していた期間が随分永かったことに気付かされた。孝志にはこの間何が起こったのかほとんど記憶がなかった。ただ、ただ、ぼーっとした思いで『今頃、加代子さん心配しているだろうな』とは考えた。しばらく考えた後一刻も早く連絡したくなった。しかし学校のこと、受験と時の経過が与えた試練を考えると頭の中は混乱して優先すべき課題が直ぐには整理できなかった。まずは一時期、期待すらしなかった父が学費や宿舎の計算までして孝志を急かせたのには困惑した。
退院と同時に、早速、加代子を見舞いに行こうとしたら、妹の登喜子がそっと近付いて「加代子お姉ちゃんから」と言って一通の手紙を手渡した。
そして「お姉ちゃんの部屋にこれがあったから、お兄ちゃんに渡してと、おばちゃんが言われたの」。それは例の「見よ」の冊子に挟まれて置いてあった孝志の写真であった。
翌年の梅雨は雨がよく降った。孝志は勉強部屋の窓を何度と無く開け閉めしていたが、突然一匹のセミが杉の木にとまった。
孝志は『セミが直ぐに別の所に移動するだろ
う』と思っていたが、夕方になり、翌日にな
り、翌々日になっても離れない。
セミは何年も成虫として土のなかで過ごし、脱皮してから生きるのは数日だというのに、此処でこんなに時間を過ごしてと思っていたら、三日後にどこかへ飛んでいった。
孝志はふと我に返り、加代子とセミを探しに行ったときのことを思いだした。
まさかと思っても、その時のことを思い出すと、感情を押さえ切れなくなり、自分の部屋の戸を閉め切って、机の上の加代子さんの写真を再び見ていたが目が潤んできて、涙が止まらなくなった。そしていつしか孝志は泣き疲れ机にもたれて死んだはずの加代子との再会を求めて夢の中をさまよって深く、深く眠に入ってしまった。
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